7月26日に放送されたNHKラジオ「昼の憩い」にて、社友の庄司龍平さん(1960年入社)のお便りが紹介されました。
放送内容とご本人のコメントをあわせてお楽しみください。
【昼の憩い 放送内容】
神戸市にお住まいの庄司龍平さんからのお便りです。
番組がはじまった1949年、私は中学1年生でした。
戦時中、東京から母の実家がある山形県のかみのやま温泉に疎開したのです。
たしか標高100mくらいの山中の学校へ徒歩で通っていました。市街地を抜ける通学路、成人してから車で距離を測ったら片道6600mもありました。800人程いた全校生のなかで私が最も遠い通学者でした。雪や雨の日は2時間かかったかも…それでも苦しかったという思いはありません。のんびりした時代だったのでしょう。
通信簿を見ると1年生の時の欠席は21日で、2年の時は0。私はひ弱な子供でしたが、中学生の頃には米、野菜、果物にお肉も豊富になっていたので、健康な体になったのです。それ以来病気知らず。
今は神戸からたまに山形へ行きますが、新幹線が早すぎて昔通った道やら風景やらがゆっくり見られないのが残念です。
神戸市の庄司龍平さんからのお便りでした。
この7月26日は一寸ビックリの日だった。
午前中、かねてより依頼のあった<青葉会400回記念号>への寄稿の初版を書き上げ、その中にNHKのラジオ放送「昼の憩い」のことも記していた(*1)のだった。
昼になり、ラジオをつけると「昼の憩い」のテーマ曲(*2)が流れ、私の投稿(約2分間)が放送された。東京で内科を開業している同郷の医師から「聴いたよー」と直ぐメールが来る。流石NHK、無名の私にもリアルタイムで聴かれた方が!
早速、NHKアーカイブから放送分の録音を抜き取り、知友人にメールしたら、戦後4年の1949年(昭和24年)の話なので、忘れ難い想い出をお持ちの方も居られ「私はこうだった。。。」というメールが相次いで届いた。下山事件…三鷹事件…松川事件と続き、秋には新中国の誕生。日本が共産化するのではと言う不安の中の世相だった。。。
以下、編集の方から戦時中の疎開事情に触れてはとのことでしたので、僭越ながら私事も交えて、それまでを前景化してみます。
1937年2月 | 東京市本郷区出生 現在:東京都文京区 | |
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同 7月 | 盧溝橋事件 日中戦争 | |
1941年12月 | 太平洋戦争勃発 この時、既にナチスドイツはモスクワ近くで頓挫をきたしていたと後で知る |
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1942年4月 | 18日ドウリツトルB25編隊 東京など初の日本空爆
山本五十六元帥の驚愕。その丁度1年後にこの世を去られるとは |
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1943年4月 | 荻窪の西田国民小学校(今もある)の1年生に。
山本五十六が同月18日にソロモン諸島でロツキードP38に撃墜される。
6月の国葬に日比谷公園だったか母に連れられて行く。 |
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1944年3月 | 山形県上山(現在のかみのやま温泉=以下Kとします)小学校に転校。 東京も米軍の空襲が懸念され始め、母の実家(Kの奥羽街道にある老舗旅館)に移る。 秋に入ると東京から学童疎開で実家の旅館にも十数人が来て寝泊。 親元に帰りたがる生徒もあり年末に東京に帰ったのに空襲に遭った気の毒な方も。 |
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1945年8月 | 終戦 = 八月や 六日 九日 一五日(詠み人多数) = | |
1946年4月 | 満州から父帰国。上海から博多の船は、女優の山口淑子と一日違い。
父は旅館経営に興味がなく、高校教師に。 |
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1947年8月 | 昭和天皇、山形行幸 (KのM旅館)に宿泊。後日、美空ひばりも来て同旅館泊。 当時はKも栄えた温泉町で、銀座に“古窯(こよう)”というレストランがあり、 ご存知の方もおられると思いますが、ここはKのホテル古窯の出店で、 当社の元副社長粟野俊介様はKの旅館のご親族です。 入社早々ご挨拶に伺うと“オレの部に来い!” しかし配属はそうはならず、結局エライ目に遭った(嘘です。~FAKE NEWSです~) |
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1949年4月 | K中学校1年生 全生徒数約800人。通学距離は私が最長で、今回のラジオはこの時のお話です。 |
中学校へは一部山道の片道6,600メートルを三年間徒歩通学し、雨雪の日は随分苦労したはずですが、今となっては楽しい思い出となったのが不思議!多分今に至るも病気知らずなのは、この時の足の鍛錬にあったのでは、という一老人の回想です。
"「青大将」 塞ぐ通学路 梅雨湿(じめ)り"
"中学路 下より舞い来る 小雪坂"
ところが、肝心の足の方は十年程前から走りにくくなり、大病院で検査も受けたが痛みや腫れもなく、原因不明。今は何もしないのもいけないと米国発のATM(*3)と言う柔道黒帯を嘉納治五郎から欧州で最初に取得したという人が開発した施術に頼っている次第。しかし今も走れないし疲れやすいので、外出時はキャリーバッグに杖を装着して出かけている。
近年は知友人の転倒事故に、驚きを通り越し不感症の状態です。柔道剣道の達人のような友人の事故もあった。一人は酒が少し入っていたが、雨の夜JRのホームから線路に転落し片足首骨折。アワやと言うところで助かる。もう一人は自宅で転倒腰椎骨折し、入院は半年余り。またいつも控えめで無難な先輩がマサカの転倒で歯を骨折。先月も長身の健康児が石段で転び脳手術。リハビリは疲れて出来ないらしい。このようなお話はもう私も至近弾の到来どころかそろそろ命中必至と警戒する今日となった。それでモットーとしているのが次である。
転倒を避ける秘訣: 何事も ゆっくりと行い ジタバタしない!
昔イタリアに行った時友人が教えてくれたイタリアの諺
(ゆっくり歩むものは 着実に 遠くまで 行ける = Chi va piano, va sano e va lontano)
この友人は “pianoは 副詞になると「ゆっくり」という意味もあるよ”と教えたかったのですが。。。
残るは、お銭(あし=お金)の問題:
1940年生まれの人は標準値だが、支払う保険料より受け取る年金額が約3,000万円も多いという。私の様な年配者には大いに助かるお話だが、それを負担しているのは若い世代の方々である。こうなると喜んでばかりはいられない。
次に高額医療費超過分の免除。これも高齢者には有難い話だが国税がそれを補てんしているとなると本当に忝(かたじけ)ない思いで一杯になる。
不治の難病となれば本人の意識も無いまま永年国税のお世話になるという具合でこれでは本人も国もwin-winではなくlose-loseの関係になる!
モンテーニュは言う:私たちは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している。
「ピンピン コロリ」こそ、と今も昔も人生の最後の願いにと神社にお参りに行く方もおられるわけですが、これは難しい。“富めるもの 神の国に入るは ラクダが針の穴を通るより難し”と聖書にあるそうですが、「人のお金で楽した者」こそではないでしょうか?
“秋深み コロリ観音 爺(じい)集い”
(*1)HP編集委員の朱牟田静雄氏は青葉会でも長くご活躍ですが
2年前だったかやはりNHK[昼の憩い]で彼の俳句が放送されました。
応募方法は簡単でスマホなどでメール投稿すれば済みますが“放送されるかどうか、また放送されるにしても、
前以ての通知は無し”と言う悩ましい条件付きです。
放送内容は一部脱落があり「山中の家から学校へ徒歩」が正しい。
(事前チェックがないのでこうした事が起こります)
(*2)多くの人がこのメロデイーを知っておられ、作曲者は古関裕而で「君の名は」「六甲おろし」なども有名です。
ただ、戦前は(若鷲は行く)など国民を戦争に鼓舞するような曲もあり評価は分かれます。
(*3)ATM=Awareness Through Movement
簡単に言えば、微妙なゆっくりした動きを骨盤から脳に知覚させる等して、身体能力の向上を計るメソッド。
創始者は Moshe Feldenkrais(1904-1984)。
フランスから米国へと永年ATMメソッドを広め、Massachusettsにて逝去。
庄司さんの過去の記事はこちらから
カサブランカ “Café Américain”の幻 ベリーダンサーの現(うつつ)
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/letter_main/entry-418.html
【特別企画:昭和の流行歌】 2016年4月 珠玉の演歌3曲
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/special/entry-279.html
【特別企画:往年の銀幕スター】2015年12月 ジャンヌ・モローと「死刑台のエレベーター」
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/special/entry-323.html
パリは 憂鬱?
http://marubenishayukai.world.coocan.jp/hiroba/tayori/tayori-2012-11-1.html
私と外国語
http://marubenishayukai.world.coocan.jp/hiroba/tayori/tayori-2011-07.html