特別企画

2016年04月25日 特別企画

「昭和の流行歌」珠玉の演歌3曲

庄司 龍平 (1960年)

筆者近影

 「♪背伸びして見る海峡を〜」、1969(昭和44)年、異才・森進一は、独特のハスキーな声で「港町ブルース」を歌いあげ、世の注目を浴びた。何せ、港は函館から釜石・焼津・八幡浜・別府と南下し鹿児島までを辿り、“遣る瀬無い女ごころ”を歌うのだ!「♪あなたにあげた夜を返して〜」と。

 そして2年後、「おふくろさん」を熱唱して、またもや人を酔わせる。この曲は広く母性本能に訴え、NHK紅白歌合戦には、2015(平成27)年までに8回も登場。トリに選ばれたこともある。森自身、中学を卒業して集団就職で鹿児島から大阪に向かう際、おふくろさんが、線路際の小道を小走りになって、発車したばかりの汽車を追ってきたという。泣かせるではないか。

 そして1974(昭和49)年、またもや異才が!今度は異国からの女性歌手、テレサ・テン(鄧麗君)だ。彼女は「空港」を歌って、この年暮れに日本レコード大賞を受賞!涙、なみだ、ナミダ!伸びのある高音、「あなた」が「あなだ」に聞こえるような発音、その華人独特の歌い方から、日本の歌い手さんとは一味違った異国情緒と隠された哀感を生みだし、これが大受けした。当時中国は、鄧小平の天下。昼は鄧小平の指導に従い、夜は鄧麗君(テレサ)の歌に酔い痴れる、「鄧+鄧」世相が現出した。その曲名は中国語では「情人的関懐」となり、歌詞も“光陰一去不再来〜”とかゴツイ感じになるが、チャイナ・ドレスに身を纏ったテレサが歌っても、目を閉じて聴くとやはり根は日本演歌だ(当たり前か)。


1968(昭和43)年、
羽田空港にて
(タラップ一番上が筆者)

 演歌独特のヨナ抜き音階(註)が醸す日本情緒は、1972(昭和47)年、あの「列島改造論」の登場などで更なる高度成長期に入った日本社会の大変動の中、人々の心を捉えて離さなくなった。都会への人口大移動或いは海外への企業進出に伴うビジネスマンの派遣増で、Away From Homeの心境の人口が増え、演歌は絶好の心の癒し薬のひとつになったのだろう。かく言う私も、1965(昭和40)年に始まり、世界の80を超す国で累計10年余りを過ごす会社生活を送った。ジェット機に乗っても十数時間掛かる異国では、只でさえ望郷の念に駆られるのに、演歌を耳にすれば、それは身に染みて堪(こた)えられるものではない。これら3曲は何れも猪俣公章の曲。彼は、“演歌と酒と女”の人生だったらしいが、55歳で早世(?)。伝説的で私の最も好きな作曲家の一人であった。


1970(昭和45)年、
別府航路の船上にて

 ヘミングウエイがまだ若い頃の1920年代、パリ滞在の頃のことをメモワールの形で晩年になって記した書「移動祝祭日」(A Movable Feast)に、次の文が冒頭にある。
「もし幸運にも若い時にパリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうともパリは付いてくる。パリは“移動祝祭日”だからだ。」
 これを私は、次のように言い換えたい。
「もしも若い頃、苦境の時でも日本演歌を楽しむことができたなら、またもや苦境が襲ってきた時(大概また襲って来る)にも演歌は付いてくる。日本演歌は、“移動癒し薬”だからだ。」
 
 =おふくろ忌 ブルース流れる 春空港=


註:ヨナ抜き音階
日本固有の音階(五音音階)で、「四七抜き音階」とも表記する。ヨナ抜き長音階を西洋音楽の長音階に当てはめたときに、主音(ド)から四つ目のファと、七つ目のシがない音階(ドレミソラ)となる。雅楽の呂旋法がこれに当たり、西洋音楽関係者が日本音階の特徴として名付けた。


(しょうじ りゅうへい・1960年入社・兵庫県神戸市在住)


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