社友のお便り

2024年11月28日 社友のお便り

=北・中・南米出張を命ず  1966年6月14日=
~遥かなり! わが旅 手記による回想~

庄司 龍平 (1960年)

1966年7月8日(金)


筆者近影

 私はNew York Yankee Stadium ライトポール際の外野席にいた。米国会社繊維課長Hの招きで課員Tと3人だった。
 「ミッキーマントルがようこの辺にホームラン打つんや。」
 Hはすでにスコアブックに目を通している。果たして3回マントルの打球が飛んでくる! Going Going Gone!
 足が不自由なのかマントルはゆっくり塁を回る。
 観衆の狂騒は今日のオータニサーン並み。試合はSenatorsに勝ちグラウンドに降りての帰り道でも観衆の興奮がなかなか収まらない。

 「これオマエに記念や!」と最後まで記入したスコアブックは私に!(写真)

 この年3月にギリシャ中近東出張から帰ってきて間もなく猛烈部長Iの指令!

・1年の予定で中南米を回り市場開拓を計れ!  
・日当 US$19(ただしNew York、Caracas etc. $35) (※)当時1米ドル=¥360
・Spain語は代理店に密着してマスターせよ! 
・まずはNew Yorkにて繊維大手メーカーと打ち合わせMexico、次いで中米六か国を管轄するCosta Rica、そして外貨潤沢で
 ビジネスチャンスに恵まれたVenezuela。
 その後はBrazil、Argentine、Chile、Peru、Columbia などを回り一旦Costa Ricaに帰り次の旅程を決めよ! 等々であった。

 BOAC機が富士山上空で空中分解墜落したばかり(後に『マッハの恐怖』なる本が)、他にもジェット機事故が多発した頃で、この発令にはありがた迷惑と思い悩む毎日だったが初めてのアメリカやラテンの国々への旅の魅力で胸が高鳴り出かけたのであった。


スコアブック1


スコアブック2


Mexico


メキシコ日墨会館にて
(右の2人がUranga夫妻、夫の左が筆者、前列夫妻はN次長夫妻)

 既にこの市場にはナイロン糸大量納入の実績のある大手バイヤーKが存在していたしメキシコ会社N次長とUranga繊維部長が充分ケアしてくれていたので解決の必要な課題は多くはなかった。
 ただ K社はPuerto Ricoにも工場があり米国からの買い付けもできるのでよく天秤にかけられ交渉は難航した。
 
 日墨会館というレストランがフジヤマ通り(Calle Fujiyama)にあり 早速メキシコ料理の初体験。Tequilaも試飲したが海抜2,200mの高地なので目が回りそう!多飲は禁物。
 翌日夕刻、社長N邸に呼ばれお寿司。社長はなんと白い板前帽を被り手捌きも鮮やかに握ってくださった。鮮魚はAcapulcoやCancunからいくらでもくると!

 にわかに勢いづいて帰りは仲間と飲みに。Reforma通りにある高級(大きな)ホテル内のキャバレーへ。
 艶やかな部屋に通され飲み物を注文しているとChica(若い娘さん)が数人現れ(私を指名して‼)と各々が盛んに自己主張のスペイン語!
 これは全くの新世界! New Yorkでも飲みには行ったがこんなことは無かった! 

 ラテンの世界は “乾杯~愛~お金~そしてそれを楽しむための時間(Salud~Amour ~ Moneda ~ y el tiempo para gastarlos)” が生活の基本と聞いてはいたが‥?

中米


Boeing 727 機体はBraniff航空の同型機

 Mexico~Guatemala~Salvador~Nicaragua~Costa RicaとPAA jetで4度の離着陸で6時間のフライト。山裾すれすれを飛ぶリアエンジンのB727機(写真)には肝を冷やす。2基のエンジンが後部のしかも主翼より上位部に付いていてよく飛べますね? 乱気流に遭えば一発で墜落では? と不安で一杯!
 なんとか夕刻首都San Jose到着。海抜1,000m、涼しくスイス並みの景勝地と言われるだけあり快適。奇麗なHotel Balmoralにチェックイン。7 $。

 暫くして所長H邸に管轄6カ国の代理店主を招いての会議があり、早速Spain語の試練が到来! しかし大学時代に某外大でスペイン語授業に潜り少しは学習していたので自己紹介や挨拶くらいは楽勝だったが。

 H邸には刺身が入った!とかで所員共々よく食事に呼ばれたが、Hはお酒をお口にされない一方お口は達者で仕事熱心。大体辛口の訓を垂れられお聞きしていて酔うわけにもいかなかった。
 結局帰りはどこかでちょっと一杯やるか!と仲間とChicaのいるバーへ! まだ若かったですからねー! でもスペイン語会話マスターにはこれほど効果的な方法はなかった。

 中米は経済統合への途上で繊維などの現地生産も可能になりつつあり、各国とも日本からの原料売り込みの先は見えていた。

Venezuela


コーエンご夫妻 1985年 京都にて


Caracas  Amparito 夫妻と


 政情は不安を極めていたようだがオイルマネーは潤沢で日本からも売り込みに千客万来。
 金は有り余るほどありLCではなくDP決済でOKという金属関係の客先まであった。

 Venezuela会社社長T、繊維部長Fともスペイン語は達者。おまけに代理店ECOの社長Elias Cohenは知日家でもありMaracay Valencia等の地方出張も2人だけで出かけることが多く、結局私のスペイン語会話上達には一番の国になった。有名な曲 “Besame Mucho“ の歌詞 ”Como si fuera esta noche la ultima vez“ 等の日本語文法では接続法の言い方を数多く覚えよ!とか、会話は接続法の多用で深みが増す!と。うまく通じてこそナンボというわけだ。
 彼はユダヤ系で繊維以外の大企業の同系社長も紹介してくれたりしたし、愛妻家でもあり彼のご両親もCaracasにご健在で両親宅にまで食事に呼んでくれたり大変親しくしていただいた。そして日本の歴史にも驚くほどの精通ぶりであった。


CARACAS OFFICE秘書 Paola嬢

 ただスペインにはまだフランコが勢力を持っていたし政治的に逃れてくる人もいて「Amparito(小さな避難所の意味)」という安価なアパートがあり、Eliasは安くて安全とばかり私をもここに宿泊するよう計らってくれた。突発的な暴動が起こり憲法停止の発令があったり、会社の現地社員の机の中にピストルを忍ばせているのを見せてもらったりしたこともある。外国人にはなかなか実感できない政情といえる。
 それでも日常生活は大らかなもので会社秘書に美形の若きイタリアーナPaola嬢がいて愛嬌タップリ幸せ一杯のオフィスだった。私の航空券経路変更とかでよく2人で近くのAlitalia旅行社に出かける。するとそこにも若きイタリア嬢が二人。暇なときは手続きが済んでも3人娘がイタリア語での世間話! Dolce Vita(甘い生活)という映画があったが何か楽しい音楽を聴いているようでまあ「楽興の時」のような時間帯であった。
 そしてPaolaはやがて美貌を認められ1967年秋Lion’s Clubの女王に選ばれたのであった。オフィスにとっても大変な栄誉であり戴冠式にはT社長以下出席して祝杯を挙げた。


Brazil


 言わずと知れた大国。日本人コミュニティの存在は大きかったが為替相場が不安定。外貨不足もあり日本からの繊維輸出は遠隔地でありまずは困難。専らタイヤコード等の工業資材やダンサーのドレス用の金銀糸など特殊品の成約を目指したが結局は徒労に終わった。
 宿は「須磨」とか「青柳」とかの日本人経営の割烹料理屋にしたが、毎日のように通貨は下落するので決済はcheckoutの日にドルを現地通貨に換えるという始末であった。

Argentine その他

 Peron大統領はスペインに逃れていてEvitaは既に亡く、外貨不足の毎日。雨の日は電話が不調になったりして生活は不便だったがレストラン・キャバレーの類はなぜか盛況で、またもや懲りずに贅沢品の金銀糸の売り込みを計ったが徒労に終わった。

 Chile、Peruなども回ったが当時はキューバから逃れていたチェ・ゲバラの騒ぎがあり(1967年10月Bolivia にて死去)総じて南米は不安定な時期であった。

USAそして帰国


出張中の日誌ノート

 New York: 1966年7月4日から2週間お初の滞在。こんな大国とよく戦争をしたもんだ、と私もヨウクヨウク思い知った。しかし真夏の暑さは日本並みでマンハッタンの冷房も効き目がもうひとつ。スプリンクラー付きの庭がある郊外の家に住む駐在の人もいて、やはり金次第のアメリカと実感する。

 その年と翌年の暮れと合わせて1か月ほど、またもやNew York。Latin Americaからくると今度は厳寒の街。空港まで冬のコートを持参して出迎えにきてもらったり駐在の方々には大変お世話になりました。
 1967年12月28日無事帰国。およそ550日に及ぶ巡回出張は幕を閉じた。
 航空機の離着陸は150回くらいか。まあ何とか事故を免れただけでも感謝したい気持ちで一杯でした。
 機を出ようとするとニコヤカなCAから無事帰国の祝電3通を手渡される。2通は薔薇や松の絵柄の綺麗な用紙で丁寧な文面だったが残り1通は飾り無しの普通紙で猛烈部長からであった。=オカエリナサイ ゴ クロウサマ I=

 以上ざっと行程を中心に簡略に記したたが、いずれもう少しまともな旅行記に書き直しを図るつもりの毎日です。
 Muchas Gracias y hasta la vista! (お読みくださりありがとうございます またお会いできますことを!)  

(しょうじ りゅうへい・1960年入社・兵庫県神戸市在住)



庄司さんの過去のご寄稿は下記からご覧いただけます


7巡りの丑年男となり ETUDE「別れの曲」が聞こえてきました…
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/newyear/entry-639.html


NHKラジオ放送「昼の憩い」中学校迄片道6.6キロの徒歩通学~お足は大丈夫?お銭(あし)の方は?~
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/letter_main/entry-498.html


カサブランカ “Café Américain”の幻 ベリーダンサーの現(うつつ)
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/letter_main/entry-418.html


【特別企画:昭和の流行歌】珠玉の演歌3曲
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/special/entry-279.html


【特別企画:往年の銀幕スター】ジャンヌ・モローと「死刑台のエレベーター」
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/special/entry-323.html


パリは 憂鬱?
http://marubenishayukai.world.coocan.jp/hiroba/tayori/tayori-2012-11-1.html


私と外国語
http://marubenishayukai.world.coocan.jp/hiroba/tayori/tayori-2011-07.html


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