社友のお便り

2025年01月27日 社友のお便り

キューバ時代の思い出

岡本 健二 (1971年入社)

 私は1971年に入社、大阪化学品輸出課に配属されました。
 1976年から1979年までハバナ出張所に勤務しました。現在ではとても考えられない経験をしましたので、そのうちのいくつかを書いてみます。


辞令から赴任まで一年


ハバナ出張所

1975年4月笹子大阪化学品部長より「キューバのハバナに駐在が決まったが事務所はないので設立するのが君の第一の仕事」と言われましたが、事前に異動の話もなく海外出張の経験もない私は不安でいっぱいでした。
当時キューバはオイルショック後の砂糖相場暴騰により経済が潤い日本への砂糖の輸出が増え、その見返りに日本との取引が大幅に増えていた頃でした。当社は鉄鋼、繊維、化学品等が成約でき、またプラント等の案件も出てきたので辞令が出る数か月前に各部門の部長級の方々約10名による丸紅ミッションのキューバ訪問によって事務所設立が正式に決定されたそうです。当時当社の窓口は海外統括部で私の大先輩の中原部長代理(元メキシコ会社社長)は「大変な所やで!スペイン語もわかりにくいよ!」また米州課の山崎さんは「日本食はもちろん何もない国やで」と言われましたが山崎さんは親切にキューバの現状など説明下さいました。
駐在員ビザは時間がかかるとのことで、辞令発令後各部門との打ち合わせが終わると繊維の方と六本木のキューバ大使館通商代表部での商談に参加したり、秋には砂糖プラントの案件で産業プラントの三名の方とハバナ出張させていただいたりしました。12月、1月に大阪の出身部にいると「もう帰ってきたのか?」と言われ2月、3月になると「そろそろ辞令取り消しになるのでは」と不安に思っていたら3月末にビザが下りたと言うことで辞令から約1年後の1976年4月に赴任することになりました。社会主義国で宿泊先も到着するまでわからず夜中にハバナ空港に着くと商工会議所の方が出迎えに来て下さっており真っ暗な夜道を走ってやっとホテルに到着し、一安心しました。

事務所貸与まで1年がかり

まず事務所の申請、各公団への挨拶回りでテンヤワンヤでしたが中原さんの言葉通りキューバのスペイン語は理解しがたくできるだけFace to face で話すようにしました。私は妻と3歳の娘を8月に呼び寄せホテルの一室は事務所、別の一室は家族の住まいとしました。食事は基本的にホテルのレストランで慣れないキューバ料理を食べていましたがたまに部屋のトイレの側の洗面所に電気コンロを持ち込み、妻が日本食らしきものを作ってくれましたが何回かホテルから「料理禁止」の警告を受けました。本社との交信は電報で国際電話も繋がりにくく不便な毎日でした。

事務所、テレックス貸与

1年のホテル暮らし後、事務所が与えられました。元コンゴ大使館だったという建物は一見立派でしたが断水、停電は時々ありました。物資の無い国ですので結局、社有車(日産セドリック)、応接セット、カーテン用の布地など本社から送っていただくことになりました。当時海統部の援護もあり総務、人事の方の対応には非常に感謝しました。テレックスも貸与され毎日本社から種々情報が入りやっと仕事らしい体制は整いました。日用品はメキシコに出向き食品、衣類、文具、トイレットペーパーまで買っていましたがメキシコの駐在員より「こんなものまで無いのか」と驚かれていました。

日本・キューバ経済懇話会

駐在時の最大の出来事は当時新日鉄の稲山会長を団長とする「日本・キューバ経済懇話会」の代表団約30~40名が訪問されたことです。当社は石井副社長が参加されました。一流ホテルに泊まられましたが副社長は「ホテルのシャワーは湯が出ないなあ」と笑っておられました。代表団はカストロ首相とも面談されましたが、その頃は砂糖相場も低迷しキューバ経済も悪化し日本とのいろいろな案件がペンディングになっていました。

カストロ体制

カストロ首相の社会主義は、教育無償化で読み書きのできない人はおらずまた医療も無償でした。砂糖しか資源の無い貧しい国ですが配給制度でなんとか最低生活は確保できていました。カストロ首相に対する信頼は厚く不平不満は少なく中南米で一番治安が良い国でした。他の社会主義国とは、その点で大きく違っていました。

娯楽

当時正式な日本人駐在員は15~20名で各社とも新商談が進まなくなったせいもありますが日本人同士は非常に親密でまた単身者が多く私の家でよく家内の日本食付き麻雀を楽しみました。ゴルフは英国大使館が管理するゴルフ場がハバナにあり多分1,000円ぐらいでプレーできましたがフェアウェイとラフの区別がつかないような9ホールのゴルフ場でした。郊外にはカリブ海の美しいビーチがあり他の駐在員ともよく行きました。また世界レベルのクラシックバレエは1ペソ(1ドル)で観覧できました。

終わりに


筆者近影 孫と一緒に

1979年帰国辞令が出ましたが実質3年、本来の仕事はあまり成果が上がらなかったものの ①20代で物質的に何もない貧しい社会主義国で事務所設立という仕事ができたこと ②会社全体のいろいろな部署の方々と交流できたこと ③スペイン語がスムーズに話せるようになったこと等、その後の丸紅での仕事に大いに役に立ったことは忘れることはできません。今でもたまにキューバ駐在時の夢(特に苦しんでいる変な夢?)を見ることがあります。

(1971年入社・おかもと けんじ・大阪府在住)


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