社友のお便り

2021年02月19日 社友のお便り

【題目】近江商人と近代日本
(副題:湖東商人の流れを汲む丸紅の源流に関する論考)

板谷 近男 (1970年入社)

 学問としての経済史は,普遍的な人文社会事象のヒントを獲得すべく、未来のために過去の史実を分析・考察する経済学の一分野ともいえます。私の卒論は、近江商人の流れを汲む丸紅株式会社(以下丸紅)の史的実像を中心に主に書誌学的に探り、激動の時代の日本の近・現代化に迫りました。
 本稿では、そのなかから、先ずは、丸紅の創業者初代伊藤忠兵衛(1842~1903)を取り上げます。続いて、家政営利企業経営の近江商人が、近代営利企業経営の近江系譜営利法人企業へと大きく転換・発展した近代資本主義経済下の1900~60年代において、主として古川鉄治郎(1878~1940)、2代目伊藤忠兵衛(1886~1973)、市川忍(1897~1973)の先達3人の企業経営の航跡に照準を当て、興味深いエッセンスの一端を論文抜粋によりご紹介させて頂きます。
 丸紅の沿 革に造詣の深い社友のみなさまを顧みず真に僭越ですが、お目通し下されば幸いです。


 


【凡 例】
1.本稿では論文調文体(「だ・である調」)を使用した。
2.本文中、敬称は全て省略させて頂いた。
3.史・資料引用は「」で示し、参考文献や注記は弊卒論に準ずるので詳細は筆者に照会願う。
4.年代表記は西暦で行い、節・文で初出の場合のみ4桁にし、それ以外は2桁で表示した。

1. 近江商人と伊藤忠兵衛について

 近江商人は、「主に江戸時代に、近江国に本拠(本宅か本店)を置いて在地性を有し、他国稼(持下り行商)した商人で、近世商人の一類型」と定義づけることができる。近江商人が成立した近世近江国は「湖の国、道の国、そして仏の国」、そのなかで湖東は「不羈独立心旺盛と狷介偏狭心の両つ」が特徴といわれる。彼の地に誕生した初代伊藤忠兵衛(以下忠兵衛)は気宇大きく、頭の閃きが鋭く、実践的な機敏さを備え、自らの才覚で西日本(主に中国、九州地区)への「持下り商内」の創業期(1858年)から成長を持続させ、伊藤本店(前身は72年開店の「紅忠」、以下本店)、伊藤京店(84年開店、以下京店)、伊藤西店(同86年、以下西店)、伊藤糸店(同93年、以下糸店)など事業を拡張し、永続企業への礎石を為した。豪商や政商と比べて、忠兵衛の歩みは地味であったが、その真価は、後々発の近江商人として伝統を受け継いだ側面だけでなく、明治という新世界での対応振りに発揮された。炯眼の閃きによる果断な対応は、西南戦争(77年)後の大不況を見越した掛売りの徹底的圧縮による現金販売と、時の為政者や松方デフレ政策(81年)を重視した安全資産としての公債買入である。また、94年の日清戦争勃発時は、活発な消費需要に積極的対応を見せて財務基盤を強化、事業は堅実に推移した。一方、忠兵衛の貿易への執心は強く、日清戦争前後より雑貨の対米輸出や中国産綿花や絹織物、英国産毛織物の輸入にも挑戦しており、その素志は後代に受け継がれていく。
 彼は、郷村で家業を止め持下り業に加わった本家の兄伊藤長兵衛に、やむを得ず西国の得意場を譲り渡し、自らは一念発起して、少年時代から営々と働いて作った自己資金を元手に大阪で「紅忠」を創業、伊藤家存続に大きく寄与したとされる公債買入や近江銀行など事業投資への関わりを除いて基本的には繊維品売買一筋の近江商人であった。92年には大阪長者番付『厳正確実浪花長者鑑』で東方前頭第64位にランクされるなど、明治20年代に入って漸くその実力が認められるようになった。この激動期に同業者が泡沫のように消え去ったなかで、業績伸長を続けた紅忠の主人忠兵衛を、世人は「船場ノ太閤サン」、と呼んだという。忠兵衛快進撃の理由はいろいろあろうが、経営的伸長のカギとして、彼の先見力、行動力、利益3分主義や会議制度導入、革新的人事制度構築といった先駆的な経営管理、そして、堅実主義等々があげられる。かつて、東洋紡績社長に就任した阿部房次郎は「忠兵衛さんは仏法の信仰厚く、権謀術数で金儲けする事を極度に嫌われ、江州商人の良い部分を代表した。(中略)その時代の江州商人がなっていない。積極的かと見れば上ッ調子で進み過ぎ、堅実かと見れば旧弊で時代遅れだったその仲に伍して、忠兵衛さんのみよく堅実にその中間を行き、また近江銀行の如き失敗の後をよく纏め上げた」と評している。
 明治維新以降、幕藩制社会が崩壊し近代社会が形成されるにつれ、近世に適合的な近江商人としての経営手法の合理的性格が薄れ、国際競争に挑み家政企業経営から近代営利企業経営の飛躍的発展を担うには、近江商人の特性を生かした近世的家政企業経営方式は次第に困難となっていったことは通説である。現代にも共通するが、近代化や富国政策など国策や政治・経済の方向性を見極めた適時・的確対応や方針転換に遅れると命取りになる。企業勃興期には、新分野に進出すべくある程度積極的な態度に転換していく姿勢が近江商人にもみられるが奏功した案件に乏しく、徳川期から明治にかけてのこの時代の生き残りは至難で、多くは変容せずに事業閉鎖や没落に追い込まれたのである。維新以後の近江商人の経済活動上の地位について、経済学者で政治家であった菅野和太郎(1895~1976)は「明治時代に適応できず、二流三流の実業家に成り下がってしまっている」と論難し、もっぱら私益追及にのみ専念する視野の狭い、長年の蓄積を保守することに汲々としている守旧的商人としての近江商人を例証に挙げている。また、近代日本資本主義の父と呼ばれ、明治政府官僚出身者で合本主義者の渋沢栄一(1840~1931)は、第一国立銀行の創立当時、近江商人の「社会的な使命」を欠いたとされる守旧的で卑屈な行動に遭って苦慮した経験を振り返り、批判的態度を示したようだ。
 忠兵衛のエピソードにつき若干触れておく。
 福澤諭吉(1835~1901)と同時代人の忠兵衛は福澤の「時事新報」を教科書視し、「独立自尊」を重視した。忠兵衛のモットーの一つは、「在所に惚れよ、仕事に惚れよ、女房に惚れよ」の三惚れ主義であった。「老少不定」、妻やゑは1952年に郷村で103歳の大往生をとげた。「惚れる」、という面では、彼は丸紅の源流である大阪を高く評価し、愛しかつ期待した一方、断然の京都嫌いといわれた。また、「丑」といえば、彼は欧化主義や文明開化の産物ともいえる西洋料理を早くから好み、牛乳・牛肉(ギウチ・ギウと称した)を最良の食餌と信じて1884年からの1と6がつく日は主従共に「一・六のスキ焼」と称する店内懇親会を開催、長く名物となった由。 
 忠兵衛の矜持を示す商業観は、「凡商業者の貴む所は機敏に在り」、「商売は菩薩の業、商売道の尊さは売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」(これが、現代の国際目標であるSDGsにも通じる本来の「三方よし」の原典で、後述)、「利真於勤」、「陰徳善事」、「公正無私、善を勧め悪を責め、私曲なきことの実践にあり」、などによって表されよう。小括すると、忠兵衛こそ、まさしく「比較宗教社会学的研究に生涯をかけた政治・経済・社会学者のマックス・ヴェーバー(1864~1920)がいう経済的行為の中に倫理的内容を見出し、資本主義創成期という偉大な企業家たちの時代を日本において代表する一人」であったといえる。

2. 2代目伊藤忠兵衛と古川鉄治郎の時代

 時代は下り、病弱だった忠兵衛が肝臓癌腫で1903年7月に生涯を閉じた直後の04年、朝鮮半島と満州の権益をめぐり日露戦争が勃発した。日露開戦は当初、わが国経済に衝撃を与えた。しかし、伊藤家では、忠兵衛が生前に体調違和を覚えるようになって早くから第一線を退き後継者たちに運営を委ねていたのが奏功、彼らは冷静に事態を受け止め強い責任感に燃えて対処したためスムーズな経営移管がなされた。開戦当初の不安は一掃されて景気上昇の気運に乗り、店は活気を呈した。
 1908年7月、2代目伊藤忠兵衛(03年に家督を継いで伊藤家当主になった忠兵衛次男の精一、以下2代目)は伊藤家事業統一である伊藤忠本部創設へと向かい、次いで国家法制の整備に則して14年12月には資本金200万円の伊藤忠合名会社(のれんは紅の○囲い、以下合名会社)を設立した。2代目の家政営利企業としての個人商店店主から、近代営利企業としての法人組織の経営者への転換である。この組織改革による合名会社の進路を決する出来事は、本店綿布部の糸店への移管であった。綿糸布という統合戦力を持つに至った糸店は、折からの綿布輸出ブームに乗って飛躍の場を勝ち取り、その後の伊藤忠商事、丸紅の命運を大きく左右することになる。 
 第一次大戦停戦直後の1918年12月、合名会社は、資本金を一挙に2000万円に増資するとともに、傘下の営業部門を2分割して株式組織に変え、株式会社伊藤忠商店(のれんは紅の○囲い、以下商店)と伊藤忠商事株式会社(のれんは紅の○囲い、以下商事)を設立。当時、関西では伊藤忠合名会社よりも例えば鈴木商店の規模の方がはるかに大きく既に総合商社といえたが、合名会社の業容はまだ呉服・綿糸布問屋の域を出なかった、こうした状況下での2分割である。商店は、資本金は500万円、取締役社長に伊藤忠三(忠兵衛次女の婿、以下忠三)、取締役に本店支配人古川鉄治郎(2代目の従兄、以下古川)等が就任、社員は京店含め369名。商事は資本金1000万円、取締役社長には2代目、専務取締役伊藤竹之助(忠兵衛孫娘婿、以下竹之助)等、社員数299名であった。 
 親会社である合名会社の統制下での2分割といっても、当時は株式公開による外部資金調達の方向性は弱く、合名会社の実質はなお個人商店から離脱するものではなかった。ところが、事態は「運命を決する分割」の方向へ進んだ。その1つは、商店は本店を、商事は糸店を母体とするものであるが、商店・商事両社の企業格差である。創業以来1893年までに存在したのは、現在の丸紅源流といえる本店とその系統の京店と西店(1915年、本店に併合)のみ、続く1893年の糸店創設(現在の伊藤忠商事源流)から2分割するまでの25年間は本店・糸店の並存期であった。だが、綿糸の内地販売が主流の糸店業績は発足以来不芳が続き、捲土重来を期すために忠兵衛の長女と店主である婿との養子縁組を解消までしてトップを交代しても容易に浮上せず、この期間の大部分は本店の庇護の下に温存が図られた。しかるに如上の綿布移管が奏功し、糸店の短期間での業績急上昇が本店に追いつきやがて凌駕する勢いを示したのである。呉服・洋反物中心の本店と貿易の糸店では、スケール・収益力・社員の素質などの面で企業格差が歴然としてきた。2つ目は、斯かる状況下で2代目が商事の社長に就任したことである。この決断は両社の資本金が1:2の相違を示し商店側に不公平感がみられたことよりもはるかに重要な意味を持った。当主が鎮座するのは元より本店であったが、糸商と貿易に特色を有する商事の成長性が2代目当主をして急遽、商事に本拠を移す経営判断をさせるに至った。2代目の性格による経営スタイルが滲み出ているといえる。 
 2020年の新型コロナの不意打ちから遡ること約100年前、世界的に大流行したスペイン風邪で罹患したマックス・ヴェーバーや東京駅丸の内駅舎や伊藤本店ビルを設計監督した建築家辰野金吾が亡くなっている。が、1914~19年は第一次大戦を背景とした大正デモクラシーと資本主義高揚期の空前の好況で、スペイン風邪が商店・商事両社に与えた記述は不思議に見当たらない。因みに、商店の第1期(1918年12月~19年11月)決算では早くも純利益200万円を計上、1割5分の処女配当を行った。人事・福利厚生面をみても、この時期は封建的徒弟制度の残滓と資本主義的雇用制の混在した過渡期として特徴付けられ、店内の空気は明るかった。 

 だが、1920年にバブルがはじけて「戦後恐慌」が発生した。この間の状況を2代目が語っている、「19年は本当の神武以来の年で、実に巨額のお金が転げ込んだ。銀行預金は見る間に数千万円、ボーナスは想像もつかぬものが出せるし〈2代目に心惹かれて19年3月神戸高商卒後の4月、伊藤忠商事に入社した市川忍(大同貿易を経て23年に丸紅商店にシフト、子会社出向などを経て49年、丸紅社長就任、以下市川)のこの年10月の賞与は初任給の何と30か月分と〉、安泰無類だった。しかし、翌20年春浅い頃から市況が悪く、そして、ガラ、大ガラ、パニック襲来である」。まだ繊維分野での総合化を目指している段階の合名会社が引き締めに転じたのは、既に総合商社として圧倒的優位の地歩を固めていた三井物産に遅れること1年後の19年末、結果論とはいえ、後に2代目が「経営判断の失敗」と披歴しているように遅きに失したのである。一旦倒産整理して一から出直すか、思い切った事業縮小かの瀬戸際に立たされ、大幅な人員削減などをせざるを得なかった経営者の苦渋に満ちた決断と無念を、2代目は後に「自分の財力と損失額との差の大きいことを考えると、計算上到底店が立ち行く筈がないことは誰よりも自分が知っておった。(中略)私は一生のうちでこのぐらい苦い思いをしたことはない。我々を信じ、我々に生命を預けるとまで云って入社してくれた人に別れを告げざるを得なかった」と述べている。当時は全部が全部、恐慌の影響を受けた訳ではなく、三井・三菱など財閥系企業や紡績大手は手堅い経営で安定した収益を上げ、むしろその地位を向上させ、結果的に独占資本の強大化をもたらしたといわれる。忠兵衛が、当時の2代目とほぼ同年齢で35歳の西南戦争当時、機敏に対峙したのとは対極をなす対応の結果といえよう。
 とにかく、戦後恐慌によって全伊藤家の事業が破産に瀕した。合名会社は商事・商店両社の再建計画を政府・日銀などに提出すると共に、資産を処分して銀行への債務返済に充てた。1920年4月の従業員数1100名を9月末には約半数にまで人員整理を行い、大幅な事業縮小を余儀なくされた。特に、綿糸布の1年以上もの先物売買契約を結んでいた商事の事態は深刻で、損失は大きく、商店の数倍にも及んだ。商事では貿易部門を切り離し、20年10月、大同貿易株式会社(以下大同)が設立される。痛手を受けた商事は、以来10年間、業績の一高一低を免れず、資本金はその後2度減資して500万円となり33年まで無配を継続した。商店も怒涛の前には施す術もなく損失は資本金に数倍する規模に達し、東京支店の閉鎖など内部整理を敢行した。さらに、住友銀行の斡旋による業祖が兄弟で同根企業の伊藤長兵衛商店(堅実的無借金経営を継続していた)との合併の議が起こり、弊仮説では実質的に古川の主導により急速に進展していった。かくて21年3月、両商店の合併が成立し、資本金500万円、社員総数339名の新生株式会社丸紅商店(のれんは紅の○囲い、以下丸紅商店)が発足、54歳の9代目伊藤長兵衛(以下長兵衛)が取締役社長、忠三が副社長、古川が専務取締役に各々就任した。
 以上のごとく、第一次大戦に際会して好況と恐慌の激しい起伏を経験した合名会社時代は、僅か6年に過ぎなかった。が、将来の飛躍のために丸紅商店、伊藤忠商事、大同貿易という分身を生みおとし、損失をすべて肩代わりした合名会社は清算会社となって膨大な債務を弁済すべく、これより2代目もろとも15年にわたって苦難の道程を歩むのである。
 戦後恐慌が始まった1920年以来の10余年間は、23年の関東大震災や27年の金融恐慌、さらには29年に始まった世界恐慌や30年の金解禁などにより経済界は不況の谷間に呻吟した。17年度取扱高が15億円で瞬間的には物産を上回った鈴木商店が27年に破綻し台湾銀行が休業、忠兵衛が01年に病躯をおして頭取に就任して身骨を砕いた近江銀行は休業宣言するに及び、株式市場は暴落した。

3. 丸紅商店の躍進と消滅

 さて、1921年3月、業界嘱目裡に発足した丸紅商店は、実質的には専務取締役・古川の統率の下、運命を切り開いていく。長兵衛と忠三はともに50歳を超え、自己を知りかつ人をも識る分別を持ち合わせて、直接営業にはタッチしなかった。10年以上にわたり忠兵衛の薫陶を得て地道な商人道を叩き込まれ、商人的才覚に裏付けられた古川は豪毅果断、進取明敏な頭脳の持ち主、現場主義で本店監理部長も兼ね、43歳という脂の乗り切った年齢とバイタリティによっていち早く体制整備を完了して丸紅商店を引っ張っていった。第1期(1921年3月~5月)には早くも純利益を計上、配当は見送ったものの順調な滑り出しを示した。次いで、第2期決算(21年11月期)では売上高2200万円、純利益61万円となり、年1割の初配当に漕ぎつけた。丸紅の源流である丸紅商店は全42期のうち、第1期と40期のみが無配で、それ以外の決算期には総て8分~1割5分の配当を実施し商事との業績の開きは歴然たる事実であった。そして34年2月には倍額増資を決定し資本金を1000万円としている。社員教育や福利厚生施設の充実、社内報や社史『丸紅商店の沿革』の発刊、店歌の発表、後述「丸紅精神5ヶ条」の制定等々が次々に具体化されていった。

 如上のごとく躍進し独立の方向にあった丸紅商店の行方を看過できず、2代目が画策したのは、1908年の伊藤家事業統一に続く30年後の全事業合同案である。2代目は戦時下の38年頃、丸紅商店や大同に合同勧誘を行った。だが、初代忠兵衛の嫡子である2代目の願い空しく、とりわけ、古川の遠慮のない反対論によって両社は応じなかった。さすがの「家」重視の古川も、18年の不公平感くすぶる分割やメーカーを志向してきた年下の従弟に遠慮は要らなかった。古川の合同案拒否の背景を別角度から分析すると、近代資本主義経済がほぼ確立した日本社会において分割から既に20年以上も経過しており、そこには、中堅ながらも一貫した企業理念の下で好業績を維持し続け、着実に独自の企業文化・風土を醸成してきた丸紅商店の主体性、独立性が示されているといえる。古川の真骨頂は、1つは時代を見越したイノベーションと他社を上回る地道で継続的な付加価値創造の積み上げの実践、2つ目は仕入方式や「不況に強い丸紅」といわれた信用リスク判断にみられる現場感覚にひもづけられた的確な経営判断と経営企画、予算統制などの経営管理と人材育成などであったと考えられるが、それらに裏付けられた彼の発言力の大きさもうかがえる。合同直前の41年1月、丸紅商店上海支店長に就任した市川の以下の回顧録がある。「この合併には絶対反対だった。否、丸紅社員の大部分が反対だったと思われる。(中略)人事などの面で、伊藤忠側に合併後の主導権を取られてしまう恐れがあった。同根の企業とはいえ、20年の間に丸紅は独自の社風を確立していた。無理な合併で我々がいわれなく冷遇されることはなかった」と。
 なお、上述したメーカー志向の動きとは、2代目の「日本の将来は工業にあり」とする英国留学を経験して得た信念や「商業必滅論」であり、その持論が、世界恐慌や金解禁の不安が広がる1929年に、大方の忠告や反対をよそに呉羽紡績の設立となって現われた。近江商人研究の専門家によっては「本格的な工業分野(製造業)を最初に志向した近江商人は近代人の2代目忠兵衛だが、それでも初代に仕えた幹部がなかなか首を縦に振らず、精々紡績業までしか持てなかった」と述べ、呉羽紡績の設立を評価する一方で、古川などの存在を暗に近代化へのくびきと論難している。が、当時の日本を取り巻く時代背景や恐慌の落し子ともいえる富山紡績の設立、さらには大手紡績が支配する紡績業界の寡占の実態、古川の人物像などを総合的に勘案すると私見ながら容易には首肯しかねるのである。
 合併案は古川の急逝で一変した。日本経済が次第に軍事・統制色を強めるなか、古川亡き後、素志を曲げない丸紅商店会長としての2代目の発言は絶対となっていた。ついに1941年9月、商事主導の下、丸紅商店と岸本商店の3社が合併、資本金3600万円、従業員数3900名、年商10億円を超える一大商社の三興株式会社(以下三興)が発足、取締役会長に2代目、社長には竹之助が就任した。「21人の役員中、丸紅からは僅かに常務1名と3人の平取締役のたった4人。丸紅が完全に冷や飯組であることは誰の目にも明らかだった」と、市川は述懐している。1700名の従業員と20年の歴史を有した丸紅商店は、こうして発展的に解消した。設立後、中国・満州市場に基盤を置いた三興は、綿糸布を中心に食料品・雑貨などの取引に従事すると共に、他社と同様に南方地域の収買・配給などの占領地経営の実務を担った。戦局悪化の中で、三興設立から僅か3年後、連合国44カ国によるブレトン・ウッズ協定(44年7月)が締結された直後の44年9月、伊藤忠系企業統合による経営の一元化と、規模の経済性と戦時受命事業に関する資金面の要因で、三興と呉羽紡績、大同が合併し、社長には2代目が就任して大建産業株式会社(以下大建)が設立された。該社は、商事・貿易部門と生産部門の兼営に加えて、各種の事業会社に対して投融資を行うコンツェルン的な総合経営体として、資本金8863万円、従業員数5000名超(うち、兵役などの休職者2000名超)のスケールで発足、関係会社は国内に76社、海外27社を擁し、終戦間際の45年1月には1.5億円に増資されている。「戦争は、いろんなできぬ事ができるもの」と、後に2代目が回顧しているが、商事を核として僅か数年で三興から大建へと急膨張した過程は、平時には到底辿れなかった経路であり、経営陣の力量を超越したまさに戦時特有の条件・環境が作り出したものであったといえよう。なお、大建でも、旧丸紅商店系の人員は第一線で活躍するチャンスに恵まれず、大半が管理部門に配属されハンディを背負い込んでいたといわれる。

 以上を総括して、2代目と相対化した古川につき私見を挟んだ若干の考察を下記する。
 古川は前述の通り忠兵衛の最も衣鉢を継ぎ、丸紅商店を躍進せしめた丸紅中興の祖ともいえる人物だが、彼の商人道にも「三方よし」の精神(後述)が謳われており、顧客重視は無論、「利は元にあり」と若き日に叩き込まれ、仕入れを殊の外大事にするなど忠兵衛のDNAが見事に受け継がれている。性格的には「肝っ玉が大きく桁外れの事業を行い、がめつくコツコツとため込んだ江州商人の平均的なタイプとは違い、大変きっぷのいい人であった」との評が専らである。血縁の伊藤本家2代目と比べると表層的な華々しさはないが、実質的に丸紅商店を牽引したスケ-ルの大きい高水準のリーダーであったことは間違いない。何よりも永続企業に必要な基本理念を維持し持続的価値創造により進歩を促すという長期的な視点があったと考えられる。当時としては先駆的な市場調査によって売れ筋や流行を把握、随所にみられる創意工夫と付加価値を高めることになるオリジナリティ-の創出、考案した商標による特約品や特製品のバリューチェーン的取引方式の確立、総合的オルガナイザー的機能の発揮などにより大阪織物問屋のなかで出色の実績を示した。加えて、毛織部の強化、後年、本店業績を凌駕することになる大阪支店の新設、織物・原糸研究のための試験室設置をはじめ、国内繊維を軸として活躍の場面を悲願の海外貿易にも求めていった。こうして1933年には丸紅商店の年商が1億円を突破した。
 古川関連史資料に基づく研究は現段階では多くは見いだせないが、彼こそ、資本主義経済下の近代的職能民主制の職業倫理的なものに基づく、むしろ自律的近代営利企業経営そのものではないかと考えられる。特記すべきエピソードがある。1931年に長兵衛が後事を古川に託して代表取締役社長を辞任したにも関わらず、実質最高経営責任者でありながら40年の急逝まで自らの判断で現在では考えられない社長空席という変則的選択をして専務に留まり大番頭役を務めたことである。名利に恬淡な人柄もあろうが、それ以上に忠兵衛の薫陶を得た古川の「社長は伊藤家から」という一面守旧的近世家族主義的原理から来る伊藤家尊厳重視の姿勢、さらに主従関係を人一倍わきまえていた彼を貫く男の美学や謙譲の美徳の優先があるとみている。私財を投じて鉄筋コンクリート建築で当時、「東洋一の小学校」と称えられるほど設備が具備された豊郷尋常高等小学校を寄付したことや、当時はごく一部の人しかやっていなかったゴルフを社員に勧めたことでも知られる。
 相対的に、創業者忠兵衛より仕事上の薫陶を授けられず、「世襲による支配」を彷彿とさせる若干17歳で在学中に伊藤家当主を引き継いだ2代目は、常に青春を犠牲にするほどの重責を意識し、殊に戦後恐慌で負った責任の重大さは古川の比ではなく、察するに余りある。だが、半家政・半近代的で配下に不満くすぶる私情優先とも受け取られる組織・人事、「経営者は経営をしなければならない」なかでの、商事会社の経営トップが1918年に半年以上の長期にわたり海外に長期出張・滞在して個別案件に集中したことにみられる経営姿勢、既述製造業への進出(古川の実弟古川義三が事業経営の難度について語っている)、竹之助との良好なコンビネーションを別にすればやや遠い現場との距離感などは分かりにくい。2代目自身がかつて、「店員は、なぜこうもよく助けてくれるのか。店の人が私以上に真剣に事業を愛し、店に忠実だった」と自戒しているのに、である。血は争えないにしても、初代忠兵衛の人間観、信仰、企業経営や事業・仕事の仕振り上のDNAといったものが果たして2代目に踏襲され、2代目の士気作興に強烈な影響を及ぼしているかは、彼の以下の記述と無関係ではあるまい。「幼少の頃より、自らを包む父(忠兵衛)の王者的な空気を自覚しつつこれを打ち破る勇気を常に心に帯びて、反逆児的行動が終生纏いついた。それらは、先ず財産、事業に対する嫌悪、親の権威への反抗、思想の一部、ことに信仰に対する圧迫への反発など…」の述懐を見る限り、忠兵衛に対する古川の態度とは、明らかに異質と言えよう。考えてみれば、妻子を郷里近江に置く在地性の時代の習慣からして、父親と寝食を共にするのは1年でせいぜい20~30日、しかも教育方針として満10歳にして親の膝下を離し、忠兵衛逝去まで仕事上の直接的接点がほぼ皆無であったのだから無理からぬことといえよう。
 一方、2代目の上述本音の表現「戦争は、いろんなできぬ事ができるものだ」は裏返せば、敗戦濃厚な全体主義国家の軍国主義体制における政商的動きであり、資本主義に基づく近代的営利企業経営や適切な経営理念の軌道から外れた潜在的リスクを内在していたことは必定といえるだろう。だからこそ、峻厳な見方をすれば、正義に基づく摂理ともいうべき戦後という客観的な時の流れが、結果論ながら、個人としての2代目には46年施行の「公職追放令」適用を、企業には47年施行の財閥解体法である「過度経済力集中排除法」が適用されて新生丸紅(下記)を分離独立の方向へ導いていったとも解されるのだ。

4.第二次大戦後の変遷と近江商人の精神的遺産

 戦後、GHQの意向や旧伊藤忠系との激しい応酬など紆余曲折を経て、1949年12月、丸紅株式会社が大建の解体から分離独立して発足した。資本金1億5000万円、取締役社長に市川、副社長に森長英などの経営陣、社員数1232名(うち男子848名)、経営理念は「正・新・和」であった。第二次大戦と敗戦による混乱、戦後の連合軍による占領政策とGHQの過度経済力集中排除法等々の下でのスタートであった。大建分割に際しては、勢力の強い伊藤忠側より不利な条件を押し付けられる懸念があった市川(三興傘下事業会社出向後、47年6月に大建専務取締役に就任している)は思いを巡らし、内地取引や管理部門に強い旧丸紅商店と外国貿易に強い旧大同との一本化構想を実現した。繊維の丸紅、貿易の大同、鉄鋼の岸本と呼ばれた3社は、各々活発な営業活動を展開してきており、これらの大同団結によって誕生した丸紅はこの時すでに総合商社の資格を蔵していたといえる。
 新生丸紅発足当日、市川は大阪本町の本社において全社員に向け経営方針を述べた。先ず、「正・新・和」の3点を強調し、この精神に基づき次の3つの方針を示した。
①派閥を作らず、実力本位の人事施策であること
②総合商社化を目指し、輸出、輸入、国内商いをほぼ1/3ずつの割合にし、繊維比率(スタート当時85%)を第1目標として50%にすること
③投機を避け、合理的、科学的経営をすること
 結びは、「諸君、今まさに艫綱(ともづな)は解かれた。丸紅丸は新装なって船出せんとしている。大きな帆を張って業界の大海原へ。怒涛の真只中へ。空は荒れよう。波も高かろう。しかし、1300の全乗組員が一致団結漕ぎまくれば、彼岸に達するに何の難きことがあろう」と、締め括った。総合商社という言葉がまだ目新しかった当時から、丸紅はこれをターゲットとして繊維はもちろん、他の重要商品も取り扱い、輸出・輸入・国内各形態の枝振りの良さを伴った業績伸長に取組んでいったのである。
 丸紅丸はスタート直後より快走、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴う好景気で業容は拡大して資本金は1年強で倍額増資となり、1951年3月期決算では5億円強の利益を計上して5割配当といった好調ぶりだった。時代背景などが異なるとはいえ、若き市川が体験した「戦後恐慌」直前の伊藤忠合名会社時代の好況下での好業績を想起させる。だが、世の中はそう甘くはなく、遺憾ながら歴史が繰り返されたのである。翌52年になると環境は一変、不況の嵐が吹きすさび始めた。繊維相場は軒並み崩れ、大ピンチの丸紅は内外でキャンセル続出、52年3月期にはこれまでの利益をすべて吐き出しても、なお5億円の損失を出し無配に転落する(この期から3期連続無配、但し欠損はこの期のみで52年9月期から連続して利益を計上した)。休戦後の綿業不況で大阪・船場の各商社、問屋は大きな打撃を受け「5綿8社」の屋台骨がぐらついた。市川は銀行、紡績会社を駆けずり回り、債務の棚上げを頼む一方、日銀が業界の救済に本腰を入れ、結局2銀行、3紡績会社に対する債務棚上げが了承され、最悪の事態は回避された。

 1955年2月19日、丸紅の高島屋飯田吸収が大々的に報じられた。私の母方系先祖の地である湖西の近江高島商人・飯田家の婿養子となった弊同郷の越前国敦賀出身飯田新七(1803~74、幼名中野鉄次郎)が1829年に創業した高島屋飯田(以下飯田)は、古いのれんを誇る名門であったが、1952年から53年にかけてのゴム、皮革、油脂のいわゆる新三品の思惑輸入の失敗から再建を図る必要に迫られ、富士銀行から「飯田を引き受けてくれる気はないか」と持ち込まれた事案だ。総合化を目指す丸紅にとって羊毛、食料品、金属関係に強い飯田を抱き込むメリットは大きかった。市川は、さらに、飯田との合併のメリットの1つとして該社の優れた人財(人材)にも着目した。最終的に433名の人員を受け継ぎ、55年9月1日、資本金16億円の丸紅飯田株式会社が発足した。初代忠兵衛は、平素は店員とひとつ屋根の下に起居して、共に働き、かつ学び上下一体感を醸成、人事についても、店員に対して分け隔てがなかったという。翻って、市川であるが、既述のごとく三興への合併時や大建時代の丸紅商店出身者への不公平処遇を中堅幹部であった自ら身をもって味わったが、「人事の公平」ということが、この合併時に活かされた。市川は名実ともに公平人事を期すべく、丸紅生え抜き社員から文句が出そうなほど、実力本位で飯田の才能のある人財を要職に配置したといわれる。同根でありながら、適材適所とはいえない不公平人事を断行したとされる2代目との差異は明らかである。以上と並んで、「商社は人」であるという観点から、丸紅は他産業以上にいち早く優秀な社員の確保にも心がけた。市川はこれを「人間の接木作戦」と呼んだという。
 合併の翌年、丸紅飯田株式会社の1956年3月期(第13期)は、売上高1122億円、純利益345百万円と、売上高が1000億円を超え、伊藤忠商事(以下伊藤忠)を抜き三菱商事、第一物産(現三井物産)と背を並べて総合商社の「ビッグスリー」(後に「スリーM」)と呼ばれ、当初予想した通り総合化路線を大きく前進させることができた。合併4年後の59年には取扱高の51%を非繊維部門が占めるまでになり、新生丸紅が発足したときに掲げた第1の目標が、10年後、ここに結実した訳である。物理学には「干渉性」という概念がある。複数の要因が互いに強め合うことをいうが、例えれば、1+1=4 にもなる。現代の商社同士の合併では、1+1≦2、2よりも小さくなるのが一般的であろうが、丸紅飯田株式会社の場合は、合併を契機に恰も干渉性が働き、飛躍の過程に突入した異例といえるだろう。

 企業文化について、市川は1964年に次のように述べている。「一回限りの利得を追うような社風でありたくはない。創立当時の社員や戦前の社員がサラリーマンにしてサラリーマンに非ずの気概をもって、日曜日でも電報を見るために会社に立ち寄るとか、夜を徹することなど、ものの数ともしなかったことは忘れたくない。逞しさが欲しい。商魂の逞しさを忘れると、三井・三菱には勝てない。(中略)丸紅創立の時には全社一丸となったエネルギーが、事務所にも社員にも満ち溢れていた。それが丸紅のよき社風を創った。今後も世間注目のうちに、いつまでもユニークな社風を醸し出すことを祈りたいし、そうすることが我々丸紅人の責任でもある」と。2018年に可決・成立して19年から順次施行された「働き方改革一括法」や昨今のデジタル・オンライン化などに鑑みると、この談話は一昔前への先祖返りと受け止める向きもあろうが、全身全霊で取組むべき商社マンとしての仕事に対する本質的な姿勢や、その真髄には何等変わりのない大切なスタンスといえる。また、森長英は、「旧丸紅・大同貿易以来の伝統的な考え方が、社風づくりに大きく作用した。創立当時から今日まで、一つの目標のために役員および社員の心が一つに結ばれた。心が一つになるということが、よき社風を形成していく力になる」と語っている。以上は「規律の文化」の前提であろう。ここに、忠兵衛や古川らのDNAが根付いてきていることが読み取れる。
 毎年行われる入社式で、市川は「当社には派閥がない。実力主義一本だから、安心して働くように」、さらに「社命は一つの運命と心得て処することが大事」と社長訓示・激励するのを常としたという。一方、私が丸紅飯田株式会社に入社した1970年4月の新入社員研修・会長講話での「人生も会社生活も運・根・鈍(ウン・コン・ドン)だ」が今なお記憶に残る。市川が現役の頃、一時、人事面での不遇で抑圧的な差別待遇を余儀なくされながらも、努力は怠らず刻苦勉励した丸紅マンを肌で感じてきたし、私生活では、母親と長女と妻*を早くに亡くす不幸はあったものの、「自らの人生における運命は、運に恵まれていた。一言でいえば幸運なサラリーマンの一生であった」と前向きに捉えている。
 私は、この「ウン・コン・ドン」なる人生訓が長年にわたり市川の専売特許と思い込んでいたが、50年後の追跡で、「運・根・鈍」の語源由来は、通常「運・鈍・根」として近江地方で使用され、何と近江商人が発端であることが分かり感慨を新たにした。弊卒論で「地理的に近江とは遠く離れた茨城県出身の市川からは、最早近江商人を発祥とする企業の一員としての色や矜持などは露出されていない…」と記載したが、若干の驚きと共に反省した次第である。

 結びに、近江商人の精神的遺産の相続ともいうべき企業理念について若干触れたい。
 基本的価値観と基本的目的から構成される「企業の基本理念の維持は、永続する偉大な企業の必要条件」といえる。そして、偉大な企業になった企業の経営者からは、一貫して社会に対する使命という絶対価値を追求する強い意思力が伝わってくる。
 翻って、丸紅創立の1949年12月に発表され、現在も変わらない丸紅の経営指導理念である「正・新・和」のもつ意味について、市川は次のように述べている。「新会社は天地神明に誓って正しい商売をするのだという処から、「正」が生まれた。「和」は平凡で社是に和を唱えない会社はないくらいだから、ありふれた感じはするが、大切なことである。「新」は私が自慢したいものだ。役員・社員は私の意図するところを理解して、新しい仕事をどしどし開拓してくれた。原子力や航空機は勿論のこと、新しい分野を手掛けてくれた。関西商社の中では、丸紅が一番早く総合商社化に成功したといわれるが、こうしたことが原因となっている」と。
 この「正・新・和」の起源は、1893(明治26)年制定の伊藤商店店法にある「5ヶ条の心得」を源泉に1933年制定された丸紅商店「丸紅精神5ヶ条」であると考えられる。それらは、「一、正義・公明を期すべし、 一、礼儀・規律を重んずべし、 一、向上進歩を図るべし、 一、質素勤倹を旨とすべし、一、共存共栄を念とすべし」。これまで幾多の戦禍や恐慌・不況の渦中を、丸紅が基本的には堅実な歩みを持続できた陰には、このような基本理念に裏付けされた体制の充実があったからこそともいえよう。敷衍すれば丸紅は、初代忠兵衛から古川へ、そして、市川へと、父祖継承の精神を受け継ぎ、それらに依拠する事業をてことして時代にマッチした新部門を次々と新設し、これに人・物・資金の経営資源を重点的に投入することによって、将来への発展を図るという伝統的なパターンが、途絶せず継続してきたといえる。

 一方、近江商人の活動の普遍性を簡潔に語るとされてきた「三方よし」なる標語は、CSRやコンプライアンスと結びついて今や世界にも広まってきており、昨今の伊藤忠商事の躍進と該社が2020年4月1日を期してこれを企業理念**として改定した(それまでは「豊かさを担う責任」)ことと相まって、目につくことが多くなっている。この「三方よし」は正確には歴史・学術用語ではなく、その内容を「最初に言葉にしたのは明治期の初代伊藤忠兵衛であった、とするのが史実に最も近い」ということが、15年、近江商人・伊藤忠兵衛研究の泰斗によって明らかにされた。それまでは、斯学の権威者達が近江商人の商行為の普遍性を格調高く簡潔に語るものとして実証を欠いた飛躍や拡大解釈が行われ、巷間に流布したとされている。しかも、その原典を1890年代における初代伊藤忠兵衛の根拠史料に依拠したとすべきところが、「中村治兵衛宗岸の遺訓(1754年)が典拠」に変容し、さらに300年生き続けた近江商人の基本理念であるとして略通説化されてきたというのだ。私は、「初代忠兵衛源泉の正当性を評価し、忠兵衛の言葉が近現代において社内外にどのように継承されてきているのかを見極めることは大切な視点」として、学問的観点よりも極めて重視している。
 他方、時代が下って、1890年代の忠兵衛の言葉を起源とする「三方よし」の精神は、前述の通り忠兵衛から直に薫陶を受けることが叶わなかった2代目よりも、忠兵衛の最も衣鉢を継ぐ人物といわれる古川に受け継がれたことは、両者の相対化(既述)や彼の商人道に関する1936年の講演***などの観点、何よりも忠兵衛との10余年にわたる濃厚接触時間の長さから間違いないと考えられる。繰り返し述べるが、丸紅源流の伊藤本店を振り出しに、伊藤忠商店を経て丸紅商店で剛腕を揮い長期にわたり好業績を維持できたのは、忠兵衛に叩き込まれた古川の才覚によるものであり、丸紅中興の祖といわれるゆえんなのだ。「三方よし」はこうした流れからすると、本来は古川の流れを汲む丸紅こそが受け継いで然るべき基本理念ともいえよう。 
 何れにせよ、昨年の伊藤忠商事の企業理念改定は、「三方よし」なる用語の原典がまさしく初代忠兵衛の言葉にあることが、今後、社会に広く周知されるのではないだろうか。伊藤家一族が繁栄することは別段悪いことでは無く、丸紅も頑張ってまずは伊藤忠商事に近づくことが肝要であろう。



 近代日本経済史の顕著な事実と思われるのは、非西欧諸国の中で日本のみが、伝統社会が伝統的指導権の下で急激な改革に着手し、逆行しようにも逆行できない近代化の過程を始めることができたといわれる点です。では、近世から明治時代という近代への画期に、産業資本の従属資本としての商業資本は、日本全体の経済体制を力強く変革・改革したのであろうか。その場合、商業資本としての近江商人資本に日本の近代化を推進する力量があり、商人の一類型である近江商人が存在しなければ、日本の近代化は真に困難であったのか。もしそうでないとすれば、近江商人がわが国の近代化に寄与したものは一体何だったのか。さらには、徳川時代を明治期との画期の観点から「連続性=Early modern」(近代初期)と捉えるか、「断絶性=Premodern」(前近代)とみるかなどについても、弊論文では種々の角度から論考に努めました。  
 近江商人研究は、これまで学究的には近世期を中心に深耕されてきたと考えられます。しかしながら、近世社会から経営を連続させた商業資本それ自身の動態と近代社会への適応過程や影響力、あるいは、近・現代に至る日本における資本主義が確立していく過程で、近江商人や近江商人系譜の企業が辿ってきた航跡や彼らが果たした役割といったものを全体的に俯瞰し、それらの変革過程を中心に据えた研究は稀少であり、わが論文の狙いや核心部分もまさにこの点にありました。
 本論考に際しては丸紅関係者にも多大なご協力を賜りました。特に、昨年急逝されたN大先輩には論文構成から脱稿に至るまで格別のご指導と数々のご助言、激励にあずかりました。末筆ながら、あらためて心より御礼申し上げますとともに、謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げる次第です。
 以上、29万字にわたる卒論から、極力個人的考察や論評を控えながらその一部(5%程度)を抜粋してご披露させていただきました。聊かでもご参考になれば幸甚に存じます。

*市川夫人(1901~68)は49年、脳溢血により半身不随となられた。市川は59年の春、皇太子(現上皇)ご成婚宮中招待会に夫人を同伴、公の席での夫人同伴はこの時の一度きりで夫人は殊の外喜んだという。

**20年1月の伊藤忠プレスリリース要旨:
商いの原点である「三方よし」の精神は、創業者初代伊藤忠兵衛の座右の銘がその起源とされ、現代サステナビリティの源流ともいえるもの。当社は創業以来、その精神を現在に至るまで受け継ぎながら、商いを切り拓いてきた。(中略)第4次産業革命や対面業界の変化といった昨今の急激な経営環境変化に対応し更なる成長を果たすには、グループ全役職員の心を一つにする必要がある。…初代伊藤忠兵衛を創業者とする当社こそが、改めてその精神を未来においても受け継いでいく決意を表明するものとして、より分かりやすい「三方よし」を企業理念とする。

***1936年、大阪中央放送局青年講座で「商人道を語る」と題して古川は次のような講演を行った。彼の経営哲学が凝縮されており、同時に丸紅商店の経営理念の内容そのものであったと考えられる。
「―――今更、商人とは何ぞやと申し上げるまでもないが、人間生活に必要なあらゆる物品をできるだけ便利に、できるだけ有用に、できるだけ安く提供して、人間生活を豊かにし、これを幸福ならしめるにあるといわねばならない。勿論、商業は営利事業であり、商人は利益追求のために一切の努力を払っているのでありますが、この奉仕の精神を忘れるならば、長続きしないものである。自己も利し、他人も利し、すなわち共存共栄の精神に立ってその営業に専念することが、商人道の真骨頂であると信ずる…。(中略)不当なる利益を貪るべきではない。金儲けには手段を選ばぬやり方は、我々の断じて取りたくないところであります。不当なる奸策を弄することによって、一時的に利益を上げることもできましょう。しかし社会の眼は正しいものでありますから、かかるやり方は、結局、早晩失敗を招く破目に陥るのであります。これらは、一獲千金を望む投機者達であり、権力者と結託して巨利を壟断せんとする政商達であり、利益の前には国をも売らんとする非国民的徒輩であります。たとえ合法的であるからといって、例えば買占め、売崩しなどによって、市価の騰落を大にし、社会に迷惑を及ぼすが如きは、商人道の埒外にある行為といわねばなりません…」

(いたや ちかお・1970年入社・千葉県在住)

前編となるご寄稿は下記よりご覧いただけます


【新春所感】より一層世界で羽ばたく丸紅へ
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/newyear/entry-648.html


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