趣味のコーナー

2023年03月16日 趣味のコーナー

私の趣味 ヒマラヤトレッキングの思い出

宇野 和孝 (1963年入社)

 ヒマラヤトレッキングとは、行ってみてよくわかったが、大自然のふところに入って、ガイド、コック、ポーターに付き添われて、村々のロッジまたはテント泊まりで、村人の生活道路を歩かせてもらう遊びである。私の体験を少しお話ししようと思う。
 ヒマラヤへは2回出かけた。最初は66才のとき、二度目は70才古希の年であった。

【最初のヒマラヤ行 - アンナプルナへ(2006年)】


アンナプルナ方面

 「アンナプルナ展望9日間」を申し込んだのは2006年1月で、渓流釣り友達中村謙二君(当時59)を誘った。ところが、ネパールの政情不安で参加者が次々降りてしまい、最後はわれわれ二人だけになったが、そんなに心配することもなかろうと、3月末ネパール航空の乗客となりカトマンズ到着。空港の周りを装甲車が取り囲み物騒な雰囲気である。迎えの人は地方で毛沢東派が勢力を伸ばしているがトレッカーに危害を加えることもなかろうと言う。
 翌日、ガイドと共に地方都市ポカラへ、プロペラ機の車窓にヒマラヤ連峰が飛び込んできた。ポカラに降り立つと眺めはさらに大きい。トレッキング開始地点で、コック、ポーターが加わり総勢7人になった。このところお客さんが少ないので皆で仕事を分かちあっているとガイドの説明。
 見上げれば首が痛くなるほどの段々畑に一本の路がのびる、そこを黙々と登る。コックとポーターはわれわれより先に発ち、昼食の準備をして待ってくれていた。登ること半日で、突然アンナプルナが白銀の姿をみせた。これがアンナプルナかと感激の瞬間である。標高2500mあたりからシャクナゲの森に入った。満開の花のトンネルの向こうにロッジ群が現れた。
 翌朝夜明け前から展望台に立つ。光の矢に染まるダウラギリ8167mが現れた。背後のアンナプルナ連峰は逆光で黒いが、間もなくベールを脱ぎはじめた。ガイドがダウラギリを眺めながら、この下に河口寺があると指さして教えてくれた。河口慧海の「チベット旅行記」は読んでいた。黄檗宗の坊さんであった河口慧海は日本の仏教に飽き足らずチベットに経典を求めて単身ラマ僧に変身して6千米の峠越えてチベットに潜入、ダライラマに謁見して多数の経典を持ち帰った。よくぞと思う。強い意志の人である。
 展望台からあとはほぼ下りでアンナプルナ大展望のトレッキングとなった。ポカラへ下山後、ガイドが最高のロッジを用意したと、湖に浮かぶ小さな島に建つロッジへ案内してくれた。各国の要人が訪れたときは必ずここに泊まるという。アンナプルナを眼前に、朝な夕な鳥がさえずり、ポカラはまさに別天地であった。


アンナプルナ 途上の路に(2006年3月)


アンナプルナトレッキングから帰ってきて(2006年3月)後列右から2番目 筆者、左端が中村氏、他はガイド、コック、ポーター


【2度目のヒマラヤ行 -エベレストへ(2011年)】


 2回目は中村君に同級生の徳永君が加わった。日本の山で知り合った大阪市立大学山岳部OB上田さんから推薦できるガイドがいるとの話で、そのガイドを指名して現地のトレッキングガイド会社と契約した。また、ゴーキョピーク5360mを目指す計画だと丸紅の同僚阪本君に伝えると、ヒマラヤの経験豊富な彼から高山病に備えて山岳登攀救援を明記した保険を掛けてでかけるようアドバイスを受けそのように手筈を整えた。
 出発1カ月前に東日本大震災に見舞われたが、準備万端整ったことでもあり、20日間のエベレスト街道トレッキングにでかけた。カトマンズのホテルで徳永君は白いソックスをとりだし、これは嫁が若かりしときに編んでくれた、今回はこれを履いて歩こうと言う。麗子夫人から出発前に、よろしくお願いしますと言われたことを思い出す。
 エベレストへはカトマンズから飛行30分のルクラ2800mへ降り立ち、トレッキング開始となるのであるが、ルクラの飛行場は山肌を切り取ってできたもので、着陸時に機が止まらなければ崖に衝突、離陸時に飛びあがらなければ谷底に墜落という危ない空港である。
 ルクラでポーター二人が合流した。今回は食事をロッジに注文するとのことでコックなしである。歩くほどに徳永君の足が早くなり、ガイドはもっとゆっくり歩くように言ってくれ、急ぐと体に悪いと言う。
 二日目に大きな村ナムチェバザール3400mに到着、三日目の朝、高台からエベレストを遠望した。ちょこっとピークが見えたが高度差5千米もあるようには見えなかった。ナムチェバザールから山腹をくりぬいた道を辿り高度を上げる。モンラ峠3800mで休憩。徳永君はじっと紺碧の空を仰ぎ、目の前の6千米峰に向いたままである。じっとしたまま動かない、数カ月前に亡くなった娘さんと会話をしているのだろうと思いそっとしておいた。


4月21日 ゴーキョピーク 左が筆者、右が中村謙二氏 ガチュン・カン 7962m

 一旦3400mの渓谷へ降り、そこから登り返しとなる。4100mを目指すのだが、徳永君の足が重い。ガイドは彼の荷物のすべてを担いだ。4100mのロッジから寝不足で顔が腫れる症状が現れる。
 翌日4400mのロッジで血中酸素濃度84、夜半から下痢症状、高度順応のため連泊するが良くならない。目指すゴーキョのロッジまでは何とか頑張るという。最後の急階段登りはキツかった。ゴーキョ4800mで高山病悪化の人が多く出るという。ゴーキョのロッジに英国人医師二人が常駐していた。すぐに診てもらう。血中酸素濃度64、肺に水が溜まり始めている、とりあえず水をたくさん飲みなさいと。夜半から下痢症状がでる。
 翌朝血中酸素濃度54、これはやばい、5360mのピークまで急ぎ登り降りしてくるからと言い残し、駆け上がろうとするが息が切れる。後で写真をみると、わが顔も腫れていた。ピークから見るチョ・オユー8201mは指呼の距離である。ギャチュン・カン7952mの氷瀑、その右にエベレスト8848mがローツェ8516mを従えて、威厳をもって聳えていた。急いで駆け下り、医師の再診を受けさせると徳永君の数値は悪化している、保険証券をみせてほしいと。保険証券をみて医師はカトマンズと交信をはじめた。今日は幸いガスが発生していないから飛べると。一時間半後の13:15ヘリの爆音が響いた、赤いヘリのローターは回ったままである、急がされる。徳永君と彼の荷物を押し込むとすぐ、谷間を滑るように降下していった。残った5人も下山開始、ひたすら下って翌日ナムチェバザールに着いた。ナムチェバザールでガイドの電話が鳴った。「徳永大丈夫、日本の嫁に知らせてくれるな」と。
 日程に余裕ができたので隣村のターメへ往復しようとなった。シャクナゲと桜草に彩られた静かな山村であった。ガイドもポーターもルンルン気分になった。この村からエベレスト登頂者が何人もでているとのことで、泊まったロッジの主人もその一人だった。
 このようにしてカトマンズへ戻ると、徳永君はすっかり元気になっていて、元のほっそりとした面持ちに戻っていた。もう大丈夫と日本食堂で乾杯をあげた。

 ついでながら、帰国後の2011年7月5日大阪本社で社友会月例会が催され、講師に平林克敏氏が招かれた。平林氏は同志社大学山岳部OBで35歳の1970年5月12日エベレストへ登頂、前日の植村直己、松浦輝夫氏に次いで三人目の登頂者であった。
 「『チベット聖地への旅』―ラマ教文化と自然―」を拝聴した。

写真をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。


(うの かずたか・1963年入社・大阪府在住)

2011年7月5日に開催された関西地区月例会の行事報告は以下からご覧いただけます。
http://marubenishayukai.world.coocan.jp/report/report_2011/report_2011_kansai.html#k03

宇野さんの過去のご寄稿はこちらからご覧いただけます


私の趣味 ギフチョウの思い出(2022年10月掲載)
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/hobby/entry-791.html


私の趣味 渓流釣りの思い出(2022年10月掲載)
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/hobby/entry-792.html


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