趣味のコーナー

2019年02月05日 趣味のコーナー

ゴルフと私(海外編)

村上稔明 (1960年入社)

はじめに


高校時代の同級生と 今治カントリーにて(2008年)

 私がゴルフを始めたのは1969年(昭和44年)、入社して9年目のことである。その前年、私は従業員組合の役員に選ばれていた。大阪在住の副委員長という重職であったが、当時は専従制度が無かったため、連日仕事を終えてから打合せを行っていたほか、組合の本部があって、会社との団体交渉の場ともなる東京へ、週に一度の頻度で往復していた。
 そして超多忙な一年間を終えてやや手持無沙汰になった頃、知人にゴルフの練習場に連れて行かれ、そこでプレーの手ほどきとともに、マナーやルールを教えられたのが、私にとってはゴルフとの最初の出会いであった。
かつては金持ちのスポーツと言われていたゴルフではあったが、1957年(昭和32年)にカナダカップ(現ワールドカップ)が初めて日本で開催され、日本チームの中村寅吉・小野光ープロが団体優勝、個人でも中村プロが優勝したことから、日本のゴルフブームが始まり、この頃になると、我々の年代でも余り気兼ねせずにゴルフができるようになっていた。
 ところで、私にゴルフを教えてくれた方が言われたことで印象に残った言葉がある。それは、「自分には出来なかったが、ゴルフをした時のスコアカードをずっと残しておけば良かった」という言葉だった。そこでゴルフを始めるに当たり、これを実践することにした。爾来82歳になるまで、半世紀近くの間プレーを続けてきて、スコアの悪い時には思わずカードを破り捨てたいことも一再ならずあったが、それを我慢してスコアカードは全て手元に残してきている。


スコアカードのファイルは22冊目に
自宅にて(2019年)

 それを見ると、これまでにプレーしたゴルフ場の数は、日本では27都道府県にわたって261コース、海外では中国、韓国、香港、シンガポール、タイ、イラン、豪州、メキシコ、英国、米国の 10か国で、64コース、そしてプレーした回数は計1,578回に上る。言い換えると、これまでに延べ5千人近くの方とゴルフを共にさせて頂いたことになる。この機会に、お付き合いいただいた皆様方には、改めてお礼を申し上げるとともに、それら膨大なスコアカードを見ながら思い出す、エピソードを幾つかご紹介させていただくこととしたい。

イランでのゴルフ

 1976年、新たにできた鉄鋼輸送課の課長を命じられた。当時、日本の鉄鋼生産は大きな伸びを見せており、粗鋼生産は 1億トンを超えると共に、製品の輸出量も3,600万トンに急増していた。中でも中東の産油国は、豊富なオイルマネーを背景に購買意欲が旺盛で、その結果、我が国からの鉄鋼製品の輸出量も急増したため、港が船混みを来たして貨物の陸揚げが滞り、問題化していた。その状況をこの目で確かめて対策を講じるために、課長就任早々2週間かけて、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビアの各国を歴訪した。
 この時珍しい経験をしたのは、まだ王政の頃のイランにおけるゴルフであった。イスラム教では金曜日が集団礼拝日になっているため、日本の会社でも木・金を休日にしていた。その休日を利用して、首都テヘランにある唯一のゴルフ場である「IMPERIAL COUNTRY CLUB」に案内された。海抜 5 千メートルのエルブルス山脈に抱かれた、風光明媚の丘陵コースであるが、砂漠ならぬ土漠の中に作られたゴルフ場なので、ほとんど芝は生えていない。かつてはグリーンもサンドグリーンと呼ばれる粘土質の土だったらしいが、その頃はグリーンだけにはちゃんとした芝が植えられていて、スプリンクラーで丁寧に養生されていた。ただしフェアウェーを外すと、石ころだらけなので、傷ついてもよいラフ専用のクラブを用意しておく必要があるのだとか。隅々まで整備の行き届いた日本のゴルフ場に慣れていると想像もつかないことであるが。
 キャディーは小さな男の子で、カートなど無いので、自分の背丈と余り変わらないキャディー・バッグを担いで、ウンウン言いながら付いてくる。ティーショットを打ち終わり、第二打地点に向かう時、この坊やが「アガー(旦那さん)、ナンボン・ナンボン?」と叫ぶ。どうやら次に何番のクラブを使うのかと聞いているらしい。「セブン」と言うと、「ああナナバンね」と7番アイアンを渡してくれた。それからも、良いショットをすると「ウマイナー」と感嘆の声を上げてくれるし、ラフに打ち込んでボールを探していると、「ミギ」だ「ヒダリ」だと言う。どちらが日本人か分からない。革命後の今、あのコースはどうなっているのだろうか。

タイでのゴルフ


タイ BANGPRA G.C にて

 1991年、北九州港がタイのラムチャバン港と姉妹港契約を締結するのに当たって、代表団を派遣することになり、私も関係業界の一員として参加した。
 その折に、折角タイまでやってきたのだからと、寸暇を見つけて、ホテルに近い「BANGPRA GOLF CLUB」でハーフラウンドだけプレーをした。その時に珍しい光景に出会った。我々から少し離れたフェアウェーを、十数人の人が一団となって歩いているのである。あれは何だと尋ねると、一組のゴルファーだという。当時タイでは金持ちグループが、一人につき3人のキャディー(椅子持ち、傘持ち、バッグ持ち)を連れてプレーすることがあり、大名行列と陰口を叩かれていたが、その一団だったようだ。
 ところで、タイでは男の子はキャディーをさせて貰えないのか、彼等はコースの池の中で河童のように首だけ水の上に出して、ゴルファーが打ち損じたボールが飛んでくるのを待っている。そのロストボールを拾っては小遣いの足しにするのだそうだ。

中国(上海)でのゴルフ


中国 上海カントリークラブにて
(1993年6月)

 鄧小平氏の号令の下、中国の上海で浦東開発がスタートしたのは1990年のことであった。丸紅も、当時の朱鎔基上海市長からの直々の協力要請に応えて、物流会社を設立することとし、当時物流保険本部長を務めていた私が現地に赴き陣頭指揮を執ることになった。
 赴任してまず感じたことは、中国は前任地のアメリカに比べるとレジャーに乏しいことであった。映画や京劇などは、言葉が理解できないので覗いたことはない。観光も、市内では豫園(ユイユアン),外灘(ワイタン)、人民広場(レンミンゴンユアン)、龍華寺(ロンホアスー)などがあるが、日本からのお客さんを何度も案内していると、段々飽きてくる。
 そこで、休日を過ごすのは勢いゴルフということになるが、ゴルフについては贅沢な遊びだということから、私が赴任した 1994年当時は、中国政府はなかなかゴルフ場の建設許可を下ろさず、上海でプレーできるのは「上海国際高爾夫球郷村倶楽部」(通称:上海カントリー)という会員制のコースがただ一か所あるだけであった。このゴルフ場には日系の資本が入っていて、上海市内からは車で30分ほどの距雛にあって至便ではあるが、プレー費はビジターだと日本円にして1万円近くもかかる。そのためゴルフ場で見掛けるのは日本人がほとんどで、中国人は台湾人か香港人の裕福な層に限られていたようだ。
 このゴルフ場のキャディーは、すべてピチピチした若い女性であり、一組に2人のキャディーがつくが、日本人客が多いせいか、そのうちの一人は日本語が堪能である。全員が寮生活を送っていて、日本語などを勉強すべく学校に通っているそうだ。
 因みにここ中国では、キャディーのことを「球童(チュートン)」という。字面といい日本語の語感といい、言い得て妙だと思う。ついでにボールのことは「球(チュー)」、ホールは「洞(ドン)」、またグリーンは「果嶺(グオリーン)」、バンカーは「沙池(サーツ)」というそうだ。日本語をしゃべれる球童さんに教えて貰った。

アメリカ(ニューヨーク)でのゴルフ


アメリカ ニューヨーク MOREFARにて(1985年8月)

 1983年、ニューヨーク勤務の辞令が下りた。この地は、住まいの近くにゴルフ場も多く費用も安いことから、駐在した5年の間はゴルフを堪能した。緯度が日本の青森と同じ二ユーヨークでは、ゴルフシーズンは短いが、それでもプレーした回数は年に40回を超えた。
 そうした中、1986年10月に記念すべき出来事があった。なんとホールインワンを出したのである。アメリカの大手損害保険会社のAIGが所有する「MOREFAR」というプライベートコースの2番ホール(137ヤード)で、7番アイアンで打ったボールが、見事にカップに吸い込まれた次第である。ホールインワンの出る確率は、アメリカでの統計によると、男子プロで3,700ラウンドに一度、アマチュアだと1万ラウンドに一度とされている。だから毎週のようにゴルフに精を出したとしても、一生に2千ラウンドもすることは稀なので、達成する人の数が極めて限られるということもうなずける。
 ところでホールインワンを達成してハタと困ったのは、内祝いをどうするかということである。アメリカに来ても、日本人社会では記念品を配る仕来りがある。しかしながら、この国には日本のようなホールインワン保険は無い。そのため記念品を配ろうとすれば自腹を切らなければならない。そこで考えた。「これを機に禁煙に踏み切ろう、そして皆さんには記念に綺麗な空気を差し上げることにしよう」と。酒落で始めたことが契機になり、以来ふっつりと煙草を止めて今日に至っている。ただ周囲の皆さんに喜んでいただけたかどうか自信はないが。


(むらかみ としあき・1960年入社・東京都世田谷区在住)



村上様の過去の記事はこちら


第一弾 「将棋と私」
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/hobby/entry-172.html


第二弾 「空手道と私」
https://www.marubeni-shayukai.com/letter/hobby/entry-39.html


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