趣味のコーナー

2018年02月01日 趣味のコーナー

将棋と私

村上稔明

筆者近影
平成27年(2015年)10月
於「今治国際ホテル」

 2017年は、将棋界にとって明るい話題が満載の年であった。佐藤康光・森内俊之両九段が、秋の叙勲で揃って紫綬褒章を受章したのに続き、史上初の永世七冠を獲得した羽生善治九段が、囲碁の井山七冠と共に、国民栄誉賞を受賞することになった。それだけではない。14歳2か月で最年少のプロとなった、中学生棋士の藤井聡太四段がデビュー早々史上最多の29連勝を記録すると共に、対局数、勝数、勝率1位をも独占する活躍を見せて、世間を大いに驚かせ、一躍将棋ブームを巻き起こした。藤井フィーバーとも呼ばれ、この年の10大ニュースの上位にランクインされるなど、世間の耳目を集めたことから、将棋教室に通う子供達の数が大幅に増え、また婦人雑誌の将棋特集で、初心者向けの紙の将棋盤と駒をセットで付録にしたところ、書店で完売が続出するといった現象まで発生し、子供だけでなく中高年のマダムにまで将棋ブームは波及しているようだ。
 長年に亘って将棋界と付き合ってきた私にとっても、将棋界の隆盛は嬉しい限りである。

大道詰将棋での修行時代

 私の将棋との付き合いは半世紀を超える。子供の頃から将棋には興味を抱いていたので、大学に入学した時には将棋部に入部することも考えたが、浪人生活で鈍っていた身体を鍛え直すのが先決と考え、あえて体育会系の部活を選んでしまった。そうしたことから、学生時代における将棋との付き合いは専ら大道詰将棋であった。

 大道詰将棋というのは、最近ではとんと見掛けなくなったが、街頭で詰将棋の問題を並べて見せ、それを見事詰め挙げた人には景品を進呈し、詰め損なった人からは料金を頂くという商売である。正月など、心斎橋から道頓堀まで歩いただけでも、何軒もの店が並んでいた。なお当時の景品というのは、問題が解ければ、ひと箱40円のピースが3箱貰え、不正解なら、1回100円を支払うというものであった。私も人だかりを見つけると、野次馬根性から頭を突っ込むのが常であったが、私が見る限り、大道詰将棋を詰め得た人は皆無であった。難しい上に、嵌め手や紛れの多い問題ばかりで、大抵の場合、詰まないわ金は巻き上げられるわで、見物人のこちらが身に詰まされるばかりであった。しかも元手と言えば将棋の盤と駒だけ、割の良い商売ではあった。とは言え、幾ら難しくても詰まない問題が出されている訳では無い。詰まない問題を出せば詐欺罪に問われるからである。そこで私としては、まず駒の配置を覚えて帰り、家で検討に検討を重ねた上で、後日同じ問題が出されているのを見掛けたら挑戦するという方法を採ることにした。その結果、かなり煙草を稼がせて貰ったが、そのうち顔を覚えられて、「お兄さんは駄目!」と断られるようになった。因みに出題されている詰将棋は、20手を超える手数の長いものばかりであり、全ての変化手順を記憶した上で挑戦するのは並大抵ではなかった。

丸紅将棋部に入部して


丸紅文化祭
高橋和女流初段との平手対局
平成10年(1998年)12月
 於「丸紅」

昭和35年に丸紅に入社した当時は大阪勤務であった。会社には同好会として将棋部があり、熊谷達人八段というA級のトップクラスの棋士が毎月指導に来てくれていた。これは教えを請わない手はないと考えて直ちに入部し、大駒落ちから基本を勉強することにしたが、二枚落ち(飛角落ち)を卒業するのに一年半も掛かり、プロの強さを実感した。当時、日経新聞が主催する「王座戦」というプロ棋戦が紙上に連載されており、その中の局面から「次の一手」の問題が出題され、正解の多かった読者が棋力検定大会に招かれ、プロ棋士の指導を受けられることになっていた。私は、幸いにもこれに選ばれ、振り飛車の名手と言われた大野源一八段に飛香落ちで指して貰ったが、「わしは飛車がおらんとあかんのや」とぼやきながら相手をしてくれたのがおかしかった。結局負けはしたが、それでも初段の免状を頂くことができた。  
昭和50年、東京本社に転勤となったが、この当時、東京には正式な将棋部は無かった。そこで気鋭の滝誠一郎五段(当時)を師範として招き、月に一度の稽古日を設けることにしたところ、社内の将棋好きが集まり、互いに切磋琢磨するようになった。そのうち、社内での対戦に飽き足らなくなり、更なるレベルアップを目指して、対外試合の数を増やしていった。当社の主導で貿易商社大会や芙蓉グループ大会を始めたのもこの頃である。将棋の団体戦は5人で指すが、私も丸紅チームの一員として対外試合には数多く出場した。貿易商社大会では、2年連続して5戦全勝で優勝したこともある。その時のチームの勝率は何と8割、まさに鎧袖一触の強さであった。その余勢を駆って出場した、19社が参加する芙蓉グループの大会では、全国区の強豪である日立製作所を決勝で破り、ここでも優勝した。そして個人としても、この大会の成績によって、将棋連盟から三段の免状を授与された。滝師範には、将棋の指導対局だけでなく、将棋を楽しむ様々な催しに参加する機会を作って貰った。例えば、NHKの教育テレビが「サラリーマンライフ」という番組の中で、「わが社の王将たち」という企画を催した時には、将棋を趣味とするサラリーマンの一人として出演し、会社における部活動の様子を紹介したり、詰将棋を解いたり、また米長九段と将棋に関するトークを行ったりした。また、夕刊フジがシリーズ物として企画した、「企業代表アマ強豪、若手スター棋士に挑戦」では、観戦記付きで8回に亘って棋譜が連載され、プロ棋士になったような気分だった。なお、この時の対戦相手は小倉久史四段で、手合いは角落ちであった。因みに小倉四段の父上は、元丸紅社員で大阪の将棋部にも在籍されていたというご縁もあった。また、テレビ対局にも出演させて貰った。「銀河戦テレビお好み対局」という番組では、船戸陽子女流初段が相手で、手合いは平手での戦いであった。

その後ニューヨークに転勤となったが、駐在中も将棋との縁は切れなかった。現地の日本人クラブには将棋部があり、当地に長年お住まいの方々によって運営されていた。毎年プロ棋士が次々に訪れては指導に当たってくれたほか、月に一度例会が開かれており、各企業の駐在員や領事館勤めの人など、多くの方が参加していたので、棋友がたくさん出来た。

退職後の将棋とのお付き合い


ジパング将棋旅行
平成22年(2010年10月)
於「よろづや」湯田中温泉

 ボケ防止、今風に言えば認知症の予防効果もあろうかということで、退職してから後も、将棋を続けてきた。ただ、齢を取ってからの棋力の低下は、身に染みて感じている。将棋の一局の総手数は、平均すると120~130手ぐらいで、若い頃は数局指し終えて帰宅した後も、手順を全て記憶していて棋譜を残すことが出来たが、今では全く思い出すことが出来ない。


 ところで、JR東日本が主催するジパング倶楽部という会員組織には、運賃割引のほか、各種趣味の会への参加という特典もあり、私はその中のひとつである、「将棋講座(中上級クラス)」に参加することにした。隔週の開催であるが、豊川孝弘七段による指導対局と講座、その後は参加者同士の自由対局を行う。同年輩の方が殆どで、学生時代に将棋部で活躍した強豪も少なくなかったので、棋力の維持向上に役立ち、将棋を楽しむことも出来る。


 一方、丸紅将棋部は最近になって、部を将棋連盟の支部として登録し、会社を代表する試合にはOBも参加できるようにしてくれたので、私も早速将棋部の一員として在籍させて貰うことにした。丸紅の将棋部の師範は、世代交代ということで、長らく務められた滝誠一郎七段からお弟子さんの阿久津主税八段に交代しているが、その阿久津八段が若くしてA級に昇級されたので、将棋部の主催で昇級昇段祝いの宴を催した際に、アルコールの勢いもあって、OBでチームを編成して「職団戦」に出場しようではないかという話が持ち上がった。「職団戦」というのは、正式には職域団体対抗将棋大会と言い、企業単位で5人がチームを組んで戦う団体戦である。前年までの成績によってAからFまでの6クラスにランク分けされており、それぞれ64チーム、その上にS級8チームがあって、合計400社、参加選手の総勢は2,000人を超える、アマ将棋最大のマンモス大会である。春秋の年2回開催されており、既に半世紀を超える歴史を刻んでいる。丸紅もかつては5チームが出場し、A級に在籍したこともあるが、現在は漸く1チームがD級で出場しているだけと低迷している。以前の栄光の時代を担ってきたOBの一員としては、現役に刺激を与える意味からも、また自分達の脳のリハビリも兼ねて、久々に参加してみようということになったものである。今回結成したチームは、初出場ということで、先ずこの年2014年の秋の大会にF級にエントリーして出場したところ、幸いベスト8に入り、翌2015年春の大会にはE級に昇格した。その後も大会ごとに好成績を上げ続け、2016年春にはC級への昇級を果たした。僅か1年半で現役チームを追い越してしまったことになる。

我が将棋人生を振り返り


2015年度社友会総会(東京会場)にて

 それにしても、80歳を過ぎるまでこうした棋戦に出場することが出来、しかも個人的にも五分以上の戦績を残せたことには大いに満足している。なお、将棋界では、盤面の桝目の数に因んで81歳を祝う「盤寿」という習わしがあるが、私も丁度その齢になったので、これを機に公式試合からは引退することにした。これまで対局した方の数は、数百名いや千名を超えるかも知れないが、相手をして下さった皆様には本当に感謝している。「礼に始まり礼に終わる」というのが将棋の基本なので、作法に則って、ここに心よりお礼を申し上げる次第である。


(むらかみ としあき・1960入社・東京都世田谷区在住)


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