趣味のコーナー

2018年09月20日 趣味のコーナー

空手道と私

村上稔明

 東京オリンピックが、2 年後に迫ってきた。これに伴い、東京五輪の競技種目が発表されたが、これによると既存の28 競技に加え、新たに野球、ソフトボール、空手、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンの5競技が追加され、合計33 競技、実施種目数は339 種目に上るとのこと、これら新しい競技の中で、私が個人的に注目しているのは、野球と空手である。 野球については、中学時代に野球部に在籍し、毎日日が暮れるまで、ボールを追い掛けていただけに思い入れが深い。一方、空手の方は大学時代に始めたが、昭和30年代の初めの頃は、まだスポーツとしての空手は揺藍期で知名度は低かった。その競技がこの度世界的に脚光を浴びることになり、喜んでいる。

大学での修業時代

 私が空手を始めたきっかけは、大学に入って、受験勉強で鈍った身体を鍛え直すべく、体育会系の部活を志望したことに始まる。しかし団体競技は中学時代の経験から束縛が多すぎるので、個人競技を選ぶこととし、その中でも経験者が少なく、スタートラインが横一線に並ぶ競技、ということで選んだのが空手道であった。 私が入部した大学の空手道部の流派は、糸東流といった。当時、空手道は柔道のように講道館一つに統一されてはおらず、群雄割拠の趣を呈していた。主な流派としては、糸東流の他に剛柔流、和道流、松濤館流などがあり、合わせて四大流派と呼ばれていて、各大学は思い思いの流派で腕を磨いていた。我が大学の師範は谷長次郎という方で、小柄ではあったが、鍛え上げられた全身これ筋肉といった体つきで、糸東流の中でも谷派糸東流を名乗っておられた。 人に負けたくなく、また根が凝り性なので、二回生の夏休みに入ると、大阪の自宅から神戸にある谷師範の道場まで連日通い詰めた。夏の真っ盛りの冷房など無い道場で、午後1時からと3時からのそれぞれ2時間の稽古に、ぶっ続けで出て指導を受けた。そのため腕も上がったのだろう。夏休み明けの大学での初稽古では、相手の動きがまるでスローモーションのように見えた。野球で絶好調だった巨人の川上選手が、ボールが止まって見えると言ったことがあるが、その境地に多少なりとも近づいたのだろう。おかげで昇段審査では初段補のお墨付きを頂戴することができた。憧れの黒帯が締められる訳である。 空手はこれまで流派が分かれていたせいもあって、流派を超えた他流試合はほとんど行われてこなかった。ところが大学で空手が盛んになるにつれて、対抗戦の機運が盛り上がってきて、統一ルール作りが進められることになったのである。防具をつけた上で、突きや蹴りを実際に相手に当てるのか、あるいは防具無しで、寸止めと称して相手の身体に当てる直前に止めるのか、色々と議論が交わされたが、最終的には後者とすることが決まった。そして昭和32(1957)年に、全日本学生空手道連盟が結成されると同時に、第一回の選手権大会が東京の両国国技館で開催され、これが大学空手の対抗試合の幕開けとなった。但しこの時には我が校は出場せず、観戦だけのために数人が上京した。 この大会を制したのは明治大学であったが、優勝校とはどれ程強いものか身をもって確かめてみようということになり、その場で練習試合を申し込んだところ、快諾してくれたので、後日10名ほどが打ち揃って東京の明治大学の道場へ乗り込んだ。実力の差は歴然としており、おまけに相手方は数十人の部員が待ち構えていて、良き敵ござんなれとばかり、入れ替わり立ち代わり立ち向かってくるものだから、一同疲れ果てるとともに、身体のあちこちに打ち身や引っかき傷を作るという散々な目に遭った。練習を終えて風呂場に案内されたが、ここではまるで相撲部屋のように、下級生が上級生の背中を流すというしきたりになっているようだった。こちらは客人ということから、「背中をお流ししましょう」と言われたが、ごしごし身体を擦られると傷口が痛む。またこの後には、カレーうどんをご馳走になったが、今度は、それが切った口の中に泌みるといった具合で、まさに傷口に塩を擦り込まれるという歓待振りで、大変な目には遭ったが、その後の練習の目標ができて、有意義かつ思い出の深い東京遠征ではあった。 それ以降、大学の対抗戦としては、全日本を始めとして、全関西、国公立、旧七帝大、東大定期戦など数多くの試合が催されるようになった。団体戦は通常5人一組で戦われるが、私も三回生になると団体戦メンバーの一員に選ばれた。そして私の公式戦の緒戦は、大阪府立体育館で行われた全関西の試合であった。相手校は大阪経大で、ここの主将のS氏は強豪としてその名を轟かせていた。彼には到底勝てないということで、捨て試合にする積もりで私が大将の座に据えられた。ところがなんと顔面へのフェイントから中段への突きが見事に決まって、勝ってしまったのである。審判が「一本!」といって大きく手を上げた時、「しもうた」と叫んだ相手の声が今でも耳に残っている。  


 これには後日談がある。それから30年ほど後になり、私が「丸紅物流」の社長となって、大阪の「りんくうタウン」に物流センターを設けた折に、同じ物流業に携わっていたS氏がテナントになってくれたのである。始めはお互いにそのようなこととは露知らず、酒を酌み交わしながら話をしているうちに、昔の因縁を知った次第であった。 最上級生になると、私は副将に選ばれ、後輩の指導にも当たらなければならなくなった。空手の稽古は、まず立ち方から入る。攻撃用の前屈立ち、防御用の後屈立ち、鍛練用の騎馬立ちなど立ち方にも色々ある。次に、突き、蹴り、受けの稽古が基本になり、それぞれ上段・中段・下段への攻撃並びに守りを反復する。手技には正拳、裏拳、貫手、手刀などがあり、また足技では、前蹴り、横蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り、飛び蹴りなど多彩なバリエーションがある。次に組手であるが、これには、決められた手順に従って技を掛ける「約束組手」と、自由に技を掛け合う「自由組手」があるが、自由組手は試合に直結する稽古であるため最も重視しなければならない。それから、空手には組手以外に型がある。型の演武は、当時は優劣を競うことはなかったが、今では(そして今度の五輪でも)採点競技として、競技の正式種目とされている。空手の型には、平安(ピンアン)初段~五段、三進(サンチン)、抜砦(バッサイ)など何十という種類があるが、当時は CDやビデオなど無い時代なので、師範や先輩の演武を自分の目で見て会得する。もちろん連続写真が載っている指導書はあるが、日本舞踊や能の所作と同じで流れがあり、また流派によって同じ型であっても細かい動きには違いがあるので、本で覚えるには限界がある。しかし先輩としては、これらを後輩に伝える責務がある。私の場合には、師範の道場に足繁く通ったことから、十幾つの型を体得していた。そこで、道場には毎日のように顔を出して後輩に組手を指導するとともに、型も伝授した。そして卒業時には二段の免状を頂戴した。  

社会人になって  

 昭和35年に丸紅に入社したが、その時会社には空手道部といったものは無かった。それどころか、空手をやっていたというと、珍しいものでも見るような目で見られた。人事部長などは私の顔を見ると「おい空手!」と呼び掛けてくれる有様で、知名度だけは上がった。ただこれを利用して、社内では空手の有段者であることは、折に触れて喧伝しておいた。そう知らしめておくと、つまらぬ喧嘩を売られることもあるまい、という打算もあった。「男子、ひとたび外に出れば、七人の敵あり」と言われるように、弱みを見せると付け込まれる。ところがインテリと呼ばれる人達は、概して腕力には弱いので、空手の黒帯は、黄門様の印籠のように、予期した以上に役に立ったようだ。但し、空手の心は「空手に先手無し」という言葉で代表されるように、絶対先に手を出してはならないということと、ひいては戦わないことが最善であるという精神であり、これは実社会に出てからも胸に刻んでいた。    

アメリカでの空手    

 ニューヨーク駐在になって、Hastings-on Hudson という所に居を構えた。マンハッタンから列車で40分程北上したところにある鄙びた街である。ところがこのような所に空手の道場があったのには驚いた。この道場の師範は日本人ではなく、風貌からするとラテン系の方のようであったが、たまたま顔見知りになったので、私も学生時代に空手をやっていたと話すと、"Be my guest"と言って誘ってくれた。そこで稽古に通うことにしたが、無料という訳にはいかないので、月60 ドルの月謝はきちんと納めることにした。この道場に通っている生徒の中で、日本人は私一人しか居なかったが、稽古の時の掛け声は「セイザ」、「レイ」、「モクソウ」、「ハジメ」など、全て日本語が使われるので、何か奇妙な感じがした。また稽古に通っている大勢の子供達とも顔馴染みになり、街を歩いていると彼等や彼女達から、"Hi! Mr.Murakami"などと声を掛けられるのも嬉しかった。 そして、定年退職後の空手との付き合いは、近くのフィットネスクラブで、突きや蹴りなど、空手の技を取り入れたファイティング系のレッスンに参加して汗を流すことであった。ここでの参加者には若い女性が多かったので、気持ちの若返りには大いに役立った。  

(むらかみ としあき・1960入社・東京都世田谷区在住)


バックナンバー