社友のお便り

2021年03月25日 社友のお便り

我が人生のめぐり逢い =丸紅との”糸”=

岡田定二 (1972年入社)

”なぜ めぐり逢うのかを 私たちは知らない”
出だしから人生論のよう様な書き出しですが、これは歌姫・中島みゆきが作詞・作曲して多くの人達に愛され私も好きな歌である”糸”の出だしの一節です。
これから語る我が人生の”めぐり逢い”は他の人にはささやかな、あるいは、取るに足らない出来事ですが自分にとってはこれ迄の人生の時々に我が身に起きた大きな意味のある事柄です。


生まれ故郷の話から始めよう


筆者近影

(生地・五十部町のこと)
 私は昭和24年11月1日生まれです。今年6度目の丑年男となりました。
 栃木県足利市五十部町426番地で生まれた時の家族は祖母・両親・姉兄弟5人の中の次男でした。
 幼い頃の私の記憶の中にはいつも祖母がいます。明治生まれの祖母は12人の子供を産み・育て84歳で他界しました。実家は群馬県新田郡新里村で10数代続く医家であること、嫁入り前には長刀稽古に打ち込み女剣士として全国行脚を目指していたとよく口にしていました。さほどに”背筋が真直ぐに伸び曲ったことが大嫌い”の誇り高い人生を生きた人でした。私達5人の孫には厳しくも慈愛に溢れていました。一緒に釜焚きの檜風呂に入る時、いろいろな処世訓や人としての所作を教えてくれました。今でも”楽は苦の種、苦は楽の種”とか”馬には乗ってみよ、人には沿うてみよ”とか”風呂で顔洗うときは耳の裏の見えない所までよく洗うこと”さらには”男らしさを磨くために能・謡曲を習うと良い”等のことを諭してくれたことをよく覚えています。
 最近、高校生・中学生(帰国子女)になった孫娘達に教えるには”NO PAIN, NO GAIN"の方が分かりりやすいかもしれませんが。
 その祖母の教えの一つは「この土地に生まれた者は大手神社(祭神:天の岩戸伝説中の天手力男命、後に、”平将門”が加わる)の氏子であり、成田山新勝寺にお参り・札受けしてはならない。家中には桔梗の花木の植栽してはならない、その色柄着物・等は使用してはならない」ということでした。当時その意味を理解できませんでしたがその教えを今でも律儀に守り続けています。現役の時以来国内外の出張で足繁く通った成田空港への道すがら成田山新勝寺の寺塔を眺める時いつもこの話を思い出します。
 最近歌舞伎に興味を持ち始め、つてあって国立劇場で観劇する機会が時々あります。現代の歌舞伎役者の中では市川海老蔵が次代を担う千両役者と思い贔屓にしてます。その屋号・成田屋は成田山新勝寺と所縁が深いと聞くにつけ節分会にでも参詣し成田屋一門の晴れ姿を拝んで門前町名物の”うなぎ料理”を一度は食べてみたいと思うこの頃です。さりとて、大好きお婆ちゃんを裏切るわけにもゆかず、「行くべきか、行かざるべきか、それが問題である」という具合で、些かハムレット的境地ではあります!?

(成田山新勝寺で手を合わせていけない理由):
 「天慶の乱」(所謂将門の乱)は939年(天慶2年)12月25日下総国とその周辺一帯で勢力を伸ばしていた平将門(桓武平氏の5―6代目嫡流)が関東8か国(+伊豆の国)を統一支配下に置いた後、新しい世を開く為、新皇「将門平親王」と自称して朱雀天皇治世下の朝廷に公然と反旗を翻した「謀反事件」であったことは周知の通りです。
 翌3年2月1日、下野の押領使(現在で言えば地方警察組織トップ)・藤原秀郷(藤原道長から8代目、中世東国武士の祖)と朝廷派遣の平貞盛(将門の従兄弟)の討伐軍は成田山新勝寺(成田不動尊)で調伏祈願受けて出陣し大合戦の末、秀郷4男・千常の放った白羽の矢で平将門を射止め、秀郷が首級をはねて朝廷軍が勝利を収めて終結しました。この時、将門の妻・桔梗姫(侍女説もあり)は朝廷軍の寄せ手に内通し、夫君・将門の動静を密告した「裏切り女」とされ地元では忌み嫌われる存在でした。将門伝説によれば、討伐軍に捕殺された時、将門の体は五体バラバラになって各地に飛び散り、その大きな”手”の一部が大手神社に飛来・落下したという伝承話が足利市五十部町に残されています。その故に大手神社の祭神となった平将門討伐軍に対して調伏祈願を行った成田山新勝寺は祭神・平将門公の仇敵であるとしてその氏子に成田山詣でを禁じたのです。
 なお、将門の首級は藤原秀郷が携えて都に上り、朝廷で首改め(首実検)された後、獄門に処されて賀茂の河原で梟首されたといわれます。そして怨霊と化した将門の首級は下総国に残された胴体と合体して宿敵と戦おうという念力を発揮して天空に舞い上がり雷鳴轟く中を坂東方向目指して飛んで行き、一方、下総国豊田郡に打ち捨てられたままであった将門の胴体もやがてピクピク動き始めてついに首がないまま歩き出したそうです。しかし、京から坂東へ向かった首級と坂東から京へ向かった胴体はお互いに出会うことなく念霊(ねんりょう)がきれ、首級は墜落して死に絶えました。一方、動き出した胴体の方も念霊が切れたことで力尽き行倒れとなりました。それぞれの場所が、首級は現在の千代田区大手町・将門首塚であり胴体部分が神田(からだ⇒かんだ、に変化という説も)大明神であったという伝承であります。
 ちなみに平将門は菅原道真・崇徳天皇(崇徳院)と並ぶ日本三大怨霊(怨霊:生前に強い恨みや憎しみ、怒りなどを抱き非業の死を迎えた人であり、祟りや災いをもたらす者)の一人です。
 日本には古くから怨霊は「祟りや災いをもたらす者」なのでこれを鎮めるべく、御霊として祀り、国の平穏と繁栄を祈る「御霊信仰」というものがあります。この日本三大怨霊はその影響力が強かったが故に日本各地に三大怨霊を祀る神社・お宮が建てられています。我が生地・五十部町にある大手神社も数ある将門神社の一つとして後年になって加えられたものと思われます。

(足利市について)
 下野国足利(現在の栃木県足利市)は12世紀初頭、清和源氏血筋の源義国が下着し源姓足利氏への第一歩を印した長い歴史と文化豊かな町です。
 ちなみに室町幕府創始者・足利尊氏(足利将軍家始祖)は源義国から9代目の直系子孫に当たります。(正確には足利性を公式に名乗ったのは義国の嫡男・義康なので8代目ということになります。)
 市中心部には義国の孫・足利義兼公が居館内に1197年(建久七年)建立された真言宗大日派「鑁阿寺」(鐘楼は国宝指定、”大日様”の愛称)があります。その近くには中世日本の本格的な高等教育機関(生徒数約3000名)としてキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と欧州にその名を伝播した足利学校(15世紀半ば足利領主・上杉憲実が再興、日本遺産指定)が市民の心の支えの一つとして保存されています。足利学校は学問所であると同時に指導的人材養成所として長きにわたり数多の人材を輩出しましたが徳川幕藩体制・260年の治世を支えた幕藩官僚の多くはこの足利学校出身者であったと言われております。
 一方、市中心部西側には、かつて足利銘仙に代表される繊維産業全盛時、職人達が冬場の”赤城おろし”を受けながら、冷たい水の流れの中で織布色付け洗い作業をしていた渡良瀬川が流れています。
 明治時代、この渡良瀬川上流域では「富国強兵・殖産興業」政策の名の下に古河財閥による足尾銅山開発が推進され日本の近代化に大きく貢献したことは周知の事実です。一方で日本の産業公害の嚆矢とされる「足尾鉱毒事件」が発生し「近代化の負の側面」もあったことを地元の学校で学びました。
 私の生家の前を流れる渡良瀬川中流域では川の対岸に当たる御厨地区で河川洪水の度に「鉱毒被害」が発生したと聞かされました。さらには渡良瀬川下流域にある旧谷中村では河川洪水被害対策として鉱毒物沈殿用の「渡良瀬川遊水地」が造成され旧谷中村全体が水面下に没する事件がありました。
 このような「今は昔」の出来事全てを飲み込んで我が故郷の大河・渡良瀬川は今もなおその水の流れを止めることなく地元民に自然の恵みを施しています。
 上流では第三セクター・わたらせ渓谷鉄道沿線(桐生駅―足尾駅間)で渓谷観光ツアーが人を呼び、中流の足利市内ではアユ釣り場があり多くの友釣りマニアが各地から訪れます。下流では栃木・群馬・茨城3県を跨いで渡良瀬川遊水地が造成され利根川水系における首都圏の「水がめ」の一つとして重要な貯水機能を果たしてます。また、広大な湿地帯の一部は「古河リンクス」として多くのゴルフ愛好家と地元市民達の憩いの場所となっています。

余談(1)
 今から60年以上前の小学校時代、1-3年生担任の小林清子先生(幼い時代の淡い”初恋の先生”)が転任した先が足尾町であり、そこで結ばれた’神山清子先生’(足尾町は平家落人の町と言われ神山性が多い)を慕って嘗て小学校仲間と訪れたことがあります。そこで見たのは「町の周囲を覆う山並の山頂付近はハゲ坊主と化し、山肌は硫黄色に黄ばんだ中に地元の人達が設けた落石・落土防止柵越しに植林がなされ、野生のカモシカが崖伝い・斜面伝いに巧みな足捌きで歩んでいるいささか異様な光景」でした。

 市北東部に目を転ずると、地元の名峰・両崖山が聳え立ち、その頂上を経由するハイキングコース延長線の終着地には”足利来るなら織姫様の赤いお宮を目印に ”と足利音頭に歌われ、市民に親しまれる”足利織姫神社”が山裾まで数百段の石段の頂点に鎮座しています。そこからの眺望は市内全景から近隣市町村へ、さらには広く関東平野全体へと広がり、晴れた日には遠く南西方向に霊峰・富士山を視野に入れることができます。なお歌謡曲ファン・森高千里ファンの方の為に付け加えると「八雲神社」は織姫神社の石段入口の直近にあり「渡良瀬橋」はそこから数百メートル先です。
 このように山と川の自然に恵まれた由緒ある町の佇まいは比叡山と賀茂川を配した1000年の都・京都の町と見方によっては類似しております。地元の人達が誇らしい思いを込めて「関東の小京都」と称する所以でしょう。

余談(2)
 読者諸氏の記憶に新しい先日の足利市の山火事は両崖山の頂上付近の休憩所を火元として私の生家のある五十部町・大岩町地区の近隣まで106ヘクタール延焼したことが全国紙・TVニュースを通じて報道されました。あれだけの大火災にも関わらず民家の巻き添えを食い止め、人身事故が発生しなかったことは不幸中の幸いでした。なお母校・足利高校・校歌の第一節は「緑さやかに山並み寄せて」と始まりますがこの”山並み”とは学校のすぐ裏手にある両崖山(今回の火災の発生源地)中心の山並みのことです。今回の山火事の第一報を聞いた時、足利高校建物への影響を即座に心配しましたが建物被害はなしとの事で一安心したところです。これまで長い間関東平野に住んでいると自然災害は他人事と高を括っていましたがこの国では誰にでも身近なところで自然災害が降りかかる危険性があることを改めて思い知らされる出来事でした。

丸紅株式会社・両毛出張所のこと

 1949年12月1日。新生丸紅株式会社が戦後の混乱の中から幾多の道程を経て設立されました。
 新社長・市川忍が掲げた「正・新・和」という「新会社の経営の指導精神」は近江商人の流れをくむ当社にとり「三方よし」の精神に一脈通ずる立派な社是と改めて思います。
 奇しくも私の生まれた一ヶ月後に新生丸紅株式会社が誕生したことは私と丸紅株式会社のご縁を感じさせる”ニアミス的出来事”と言えましょう。
 丸紅社史によれば当時の社内組織は「本社⇒東京支店⇒両毛出張所」となっています。
 1950年3月期(1949年12月以降4か月間)の変則決算結果は売上高:49億8,794万円、純利益:2,298万円、商品別売り上げ内訳:綿糸布・絹人繊糸布等の繊維関係取引きが全体の約80%とあります。このことから容易に類推できることは両毛出張所はJR両毛線(群馬県高崎駅ー栃木県小山駅間運航)沿線市町村において明治維新以来の国策として奨励され、国富蓄積(外貨獲得)の主翼を担った生糸(絹糸)を中心とした繊維関連取引きの推進のために設置された出張所であるということです。
 なお両毛出張所は足利織物会館(足利織姫神社下から徒歩5分程度、詳細は*注釈参照)内の一角に事務所を構えていました。その後両毛出張所は幾多の社内組織再編の流れの中で、私が入社した1972年時点では東京本社日本橋支店(日本橋富士ビル)傘下の”足利出張所”となっていたと記憶します。足利出張所はその後閉店されたと思いますがこの辺の事情をご存じの方がいらっしゃればお教えいただければ幸甚です。

*一般財団法人・足利織物会館の沿革:
 1941年10月解散した足利織物同業組合所有財産のうち、由緒ある織物会館構内の土地875坪96、建物705坪45を先代の偉業として継承し永久保存の方法を講じ足利繊維産業の発展に寄与するため1954年4月当該財団の寄付を受け財団法人を設立し、業界の公共福利施設として永く後世に保全管理するものであると同館の資料にあります。

丸紅との最初のめぐり逢い=高校時代の姉との会話

 私の母校は先述した通り栃木県立足利高校です。1965~68年の3年間を両崖山の麓の学舎で学びました。私は高校入学以来、将来は海外勤務できる仕事に就くことを心に秘めて「1日5時間×365日×3年間、全参考書3回反復演習」の計画を立て、参考書・Z会通信添削・旺文社ラジオ講座を中心に「4当5落」と言われた受験戦争に打ち勝つために実行しました。後にも先にも、我が人生で一番熱心に勉強をしたことを唯一の自慢話としてお許し下さい。
 一方、8歳年上の姉は協和銀行・足利支店で主に窓口業務担当していました(1960~68年)。
 ある日、姉と話している中で、銀行の仕事話となり「銀行窓口にはいろいろな取引先の方々が来られるが、多くの商社(兼松江商、蝶理と記憶)の中では丸紅飯田の人が一番格好いいのよ」というような話があったことを良く覚えております。この時初めて丸紅飯田という名前の会社があることを知った私にとって、この一言が、その後の我が人生を決定づける運命の一言となるとはツユ思わなかったことは確かでした。もしも、読者諸氏の中に1960年~1968年当時に両毛出張所(足利出張所)に勤務されていた方、あるいは、仕事で出かけた方がいれば、当時の思い出話でもお聞かせいただければ幸いです。

余談(3)足利高校時代のある出逢い:
 1968年3月。私は首尾よく一橋大学経済学部に合格しました。
 当時、前年まで足利市長であった木村浅七氏は戦前に衆議院議員を2期務め、戦後1945~1967年連続6期当選(全国市町村長会・会長経験あり)した地元政財界では有名人であり、東京高等商業卒の如水会員でもありました。この年、幸いなことに、足利高校からは一橋大学に4名合格者が出ました。
 そこで木村浅七先輩の号令もあり如水会・両毛支部(実質は足利支部)支部長・板橋氏(地元のタクシー会社社長)より“合格祝い会“の案内あり。3月末のある日、お招き先の市内渡良瀬川河畔にある日本料亭に出向くと、そこでお会いした中の一人としておられたのは足利高校出身の大学先輩、当時3年生であった秋山先輩でした。実は、この秋山先輩こそ丸紅入社以来法務部関連の仕事をされ丸紅米国会社・NYK勤務を経て、ニューヨーク州弁護士として活躍されている秋山先輩であります!

大学3年生の春休み前の出来事

 1971年の年明け。私は一橋大学の3年生でした。当時は1960年代に始まる日本の高度経済成長が中間期から成熟期へ差し掛かる頃であり、” 団塊の世代”であった大学生の就職市場は圧倒的に”売り手市場”で青田買いの最盛期でした。当時は” 就職活動解禁ルール”もなく、3年生後半期になると企業のリクルート活動が始まり、年明け1月になると国立の町では各社の先輩OBが街中の飲食店を会場にして連日会社説明会を活発に行っていました。生来、根が卑しい私自身もクラブ・学生寮・ゼミの先輩のお誘い受けて、タダメシいただきにお寿司屋さん・日本料理屋さんに何度か足を運びました。あの頃は大塚食品・ボンカレーとか日清チキンラーメン等の即席食品が流行りだし食されていた頃です。時々、下宿先である国分寺駅近くにある「金ちゃん食堂」という大衆食堂(1食150円程度で御飯大盛り・焼きサバ定食・等が食べられた)や中華食堂(チャーハン・餃子定食の類)での食事は貧乏学生には”御馳走”でした。それだけに、国立の街中にある寿司屋・日本料理店でのタダメシは本当に”ゴッツアンでした!”
 時は進んで、3月初旬のある土曜日。春休み中のアルバイト応募・面接のため、野村證券本社(兜町)を友人H君と訪問しました。総務課担当者のアルバイト内容説明はあまり興味をひくこともなく途中から上の空で話を聞いていると先方は話を就職勧誘に切り替えて「人事課長(確か大学先輩OB)を紹介するので当社への就職を検討してほしい」ということになりました。我々二人にしてみれば単にアルバイト応募目的の訪問でしたがせっかくの勧誘を無下にもできず人事課長との面談を行ってその場を辞したのは11時過ぎであったと記憶します。野村證券本社を出た後、せっかく都心に出かけてきたのでどこか会社訪問しようとなったのは自然の成り行きでした。
 かねてから商社希望を持っていた私から「近場にある大手商社を訪ねてみよう」と提案して公衆電話ボックスに入りました。当時の都内電話帳は半端ない分厚さでどっしりと重いものでした。さて、どの商社を訪問しようかというもののお互い特定の会社を決めていたわけでもない中、私の脳裏をよぎったのは高校時代に聞いた姉のあの言葉「丸紅飯田の人が一番格好いいのよ!」でした。友人H君の同意を得て丸紅飯田株式会社の電話番号を探し出して人事課に電話すると土曜日の昼前にもかかわらず「これからおいでいただければ人事課長代理の者が応対します」旨の返答あり。そのまま大手町ビル5階にあった会社受付に出向くと応接室に通されました。しばらくすると人事課の見目麗しい女性社員がミニ風スカートの紺色制服を身に着けて現れ、生まれて初めて飲む「生オレンジジュース」を差し出してくれました。今にして思えば、この時の美しい女性社員と生オレンジジュースの旨い味が丸紅入社の決定打だったかもしれませんが・・・・。とまれ忘れがたい思い出であります。
 さらに待つことしばららくして現れたのは松江人事課長と泊課長代理(大学OB)のお二人でした。
 暫し面談する中で松江課長が語った話の中で記憶に鮮明なのは、「商社業界では丸紅飯田は伊藤忠とよく比較されるが、今や伊藤忠はライバルにあらず、これからは3Mの時代である。当社は売上高・2兆円を達成した後、目指すは三井・三菱に追いつき・追い越し、業界No.1になることである」というような話でした。大変野心的な計画目標が当時の丸紅飯田の勢いを大いに感じさせたことを記憶してます。帰り際に泊課長代理から「当社の入社試験は来週から始める予定です。今年は君達の大学から始める。この入社願書持参の上来週3月〇日に来社のこと」というような説明と共に丸紅飯田株式会社のロゴ入り封筒を渡されて大手町ビルを後にしました。

(入社試験当日の思い出)
 翌週指定された日時に再び大手町ビル5階を訪問し面接会場に通されると大学の同期生が40~50人位集まっていました。受付順番ごとに面接会場へ案内されていざ自分の番がくると「これからの人生を決める一大事」ということでさすがに緊張したことをつい昨日のことのように思い出します。
 面接試験には檜山社長・園部人事部長・他、会社の役員・幹部の方々が向かい席に座り、何か見ながら幾つかの質問がありました。当日の印象として強く残っているのは、
一番に、檜山社長の威風堂々たる体躯・姿勢と眼光の鋭さ、それに「水戸訛り」の残る語り口
次に、ある方の質問「君は数字は得意ですか?」対「正直、余り得意ではありません」の応答
という2点でした。
 明けて翌日午後、国分寺市東元町にある下宿近くの銭湯で早めの風呂に入り下宿の2階部屋に戻ると1階に住む大家の小母さんから連絡あり「丸紅飯田という会社からの電話で、こちらの連絡先まで電話・連絡するように」との伝言あり。早速、すぐそばの赤電話で電話すると「岡田定二さんですね、あなたの入社が内定したので入社手続き書類を送ります。記入の上返送ください」という旨の説明あり。
 かような次第で会社訪問から一週間足らずで入社内定(事実上の決定)となり、嬉しさと同時に肩の力が抜けたような脱力感もあったことを覚えています。

竹橋本社ビルの思い出とそこでのめぐり逢い

 1972年4月1日丸紅株式会社に入社しました。
 同期入社男性社員は前年度から始まる「新規学卒採用計画:5か年×毎年300名採用」に沿って300名弱であったと記憶します。また同期入社の女性社員は全社で約800名と記憶します。
 新生丸紅株式会社発足以来、大小の会社合併を繰り返して業容を拡大した当社は新たな発展を目指して丸紅飯田株式会社から設立当初の会社名である丸紅株式会社へと先祖帰りしました。
 同時に東京本社を大手町ビルから新社屋ビル・丸紅ビルヂングへ移管しました。
 我々は新しい丸紅株式会社の新しい竹橋本社ビルに入社した第一期生です。
 当時、新本社ビルは黒色基調の長方形型パレスサイドビルと好対照をなす白色基調の正方形型16階ビルとして竹橋駅のそばに高く聳えていました。晴れた日には眩いばかりの玉虫色に光り輝いていた姿が目に焼き付いています。あれから50年近い星霜を経て、建て替えを行っていた丸紅本社ビルが同じ「千代田区大手町」の地に竣工したことは感慨深いものがあります。
 私の配属先は化学品部門(部門長:津久間豊常務)・化学品輸出部(部長:上田美智造)・化学品輸出第2課(TOKB973:山県洋三課長)でした。
 約1ケ月程の入社研修を終えて同期生で今は亡き中野好博君と一緒に竹橋ビル9階皇居側にある配属先である化学品輸出第2課に案内・紹介されました。そ日の夕方、終業時刻過ぎのこと、山県課長から二人呼ばれて会議室に入ると、開口一番、「君たち一人当たり250万円程度の経費がかかります。従い一日も早く営業戦力として貢献できるよう研鑽努力に励むこと、云々」というような訓示をいただきました。その後、二人で帰社する途中パレスサイドビル内の喫茶店に入り自己紹介しながらの話の中で、「一人当たり250万円の経費って何だ?」ということになりました。実際、当時の新入社員初任給は大体5万円弱程度(1972年度の定昇で7月から月給55,000円程度)と記憶します。したがい、250万円の経費などという二桁も違うお金の話をされてもチンプンカンプンであったのはやはり”若かった”ということでしょう。

(妻とのめぐり逢い)
 化学品輸出2課は山県課長以下総勢15名(含む東西貿易斑3名、営業経理課1名)構成でした。
 その中、女性社員は4名でした。私は北関東の田舎町で男4人の兄弟の中で育ち、悪ガキ達と遊び、男子高校から女子学生が在籍者680名中数人(8名程度?専攻学部には1名のみ)の男子学生中心の大学に通った人間にとって丸紅入社は大きな人間環境の変化でした。
 それは、それまで経験したことのない、女性に囲まれて仕事をする環境であり、女性社員の気遣い親切に対する有難さと同時に、何か奇妙な違和感(ある種の気恥ずかしさみたいなもの?)でした。そんな環境にも徐々に慣れて部内・課内の多くの方たちと仲良くできるようになって行く中で育まれたある女性社員との関係が1975年11月16日の結婚式へとつながることになりました。
 その相手とは化学品輸出第2課(東西貿易斑)に同期入社として配属され斜向かい席にいた現在の我が妻です。同じ年に300名の男子社員の一人として、また。800名の女性社員の一人として、同期入社して同課に配属された二人の一期一会の運命の”めぐり逢い”がそこにありました。

丸紅での会社生活のこと

 1972年4月丸紅株式会社入社から2011年3月子会社・丸紅ケミックス株式会社退社までの39年に及ぶ丸紅生活には喜怒哀楽こもごもの思い出が沢山詰まっています。
 思いつくままに挙げれば、

+化学品部門で長らく仕事をして多くのことを学んだこと
+生涯の伴侶を得て、3人の子供と8人の孫に恵まれたこと
+4回・通算16年の海外駐在経験をしたこと(ロンドン2回・ブラッセル・シドニー)
+ロンドン勤務中次男を”HOME STUDENT”(4年間授業料免除)で英国大学に入れたこと
+海外出張先は5大陸の60か国に及ぶこと
+国内出張先は47都道府県中43都道府県となったこと(残り4県:沖縄・鳥取・徳島・高知)

 その他、社内のみならず国内外の取引先の数多の方々から様々なことを学んだことの一つ一つが不肖の身にはかけがえのない財産です。そのことを可能にしてくれた丸紅株式会社と全ての関係者の皆様方にこの紙面をお借りして心からの感謝を申し上げます。

最終章に代えて

 振り返ると、私と丸紅の”めぐり逢い”は生地・五十部町にある大手神社にまつわる平将門伝説にちなんだ祖母の教えに始まり、高校生の時の姉との会話での一言が決め手となったと思います。1971年の会社訪問の際、”丸紅飯田・大手町ビル行き”の天啓を齎したのは姉の一言と大手町にある将門首塚の将門公であったのかもしれません。
 私の最後の”めぐり逢い”は現在住んでいる茨城県守谷市でのことです。
 1986年(昭和61年)ロンドン駐在から7年振りに戻った都内のマンションは子供3人となった我が家には手狭となり「終の棲家」を求めて1989年(平成元年)現在地に引っ越してきました。
 この町には”守谷城址”があります。この守谷城は平将門一族創建と伝えられております。
 我が家は城址から2kmほど離れた場所にありますので散歩がてらに歩いて訪れたこともあります。この町で成田山参詣禁止のこと、桔梗の花木関連取り扱い禁止の話も耳にすることはありません。
 それにつけても、生まれて以来この方、生地と終の棲家のある現在地が将門伝説に深く関わっているとは、何という”めぐり逢い”でしょうか?今更ながらに我が人生の”めぐり逢い”の不思議を感じざるを得ません。

 昨今の私は「コロナ禍」による自粛の中、歩いて2分ほど先に借りている100坪ほどの家庭菜園での野菜作り、水戸家裁・下妻支部での家事調停の仕事と守谷市農業委員会・民間委員の仕事をする傍ら友人との平日ゴルフと地元卓球クラブ仲間20数人と近所の公民館で週3日の卓球練習で体を動かし、3人の子供家族とLINEグループ結成して、時々、チャットとテレビ電話会談を楽しむ平穏無事な暮らしをしています。
 平成元年、30年以上前に、今あるを期待して大きな決断をして都内からはるばる転居してきた北相馬郡守谷町(転居当時の町名)の住環境はこの30年余りで、特にTX新線の開通以降、大きく変貌しましたが、郊外にある我が家近くにはまだまだ豊かな自然が残ってます。
 それは、春には四方で鳴くウグイスの声、夏には郭公と雲雀の大きな囀り、秋の収穫期に餌を求めて畑に出現するタヌキ・キツネあるいは外来害獣・ハクビシンの存在が如実に物語ります。
 今の私は、生まれてから18歳まで過ごした足利市郊外の自然に恵まれた生活環境と、ある意味では、類似した部分も残るこの守谷市郊外の自然豊かな住環境がとても気に入っています。

”糸”の最終章は、
「逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます」
で結ばれています。

さて、丸紅という”逢うべき糸に 出逢うこと”が叶った私は仕合わせ者なのでしょうか?
そして、本稿を締めくくる問いは
私は”格好良い丸紅の人”になることができたのでしょうか?


(おかだ ていじ・1972年入社・茨城県在住)


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