社友のお便り

2021年01月26日 社友のお便り

大向う

今井紀久男 (1963年入社)

 青葉会でも活躍されておられる今井紀久男さん(1963年入社)より「大向う」と題するご寄稿をいただきました。
 入社後の大阪からはじまり、東京転勤後のお芝居の話に14句もの俳句を交えた作品となっております。歌舞伎の歴史と劇場の雰囲気を楽しむことができますので、このステイホーム期間中にぜひ、ご一読ください。
 最近ではコロナの影響もあり、芝居見物の醍醐味である掛声も禁止されているそうです。1日も早くコロナが終息し掛声が響き渡るお芝居が多く開催されることを祈るばかりです。
 また2019年には初芝居総見を青葉会よりご寄稿いただきました。こちらも併せてお楽しみください。
https://www.marubeni-shayukai.com/group/aobakai/entry-428.html

一、「オペラ座の掛け声ぢかに夏歌舞伎」  天牛
二、「羅(うすもの)や人唸らせる大向う」    啓子
三、「掛声の絶妙の間や夏芝居」      千恵
四、「夏ばてや掛け声遣るもいまひとつ」  紀久男
 昭和六十年職場句会「青葉会」創立以来400回記念企画を令和元年八月歌舞伎座で催した折の句です。
五、「掛け声もすっきり決めて初芝居」   紀久男
 青葉会は月一回ですが一月の初芝居総見は五日昼の部に決め、昨年までは多くの場合、浅草公会堂の「新春花形歌舞伎」。はねてから飯田屋(どぜう)や尾張屋(蕎麦、天麩羅)で新年会。
 大向うは舞台から見て客席の三階後方や一幕見の立ち見席とのことで、そこから掛声する人も同じく大向うと言います。
 コロナ禍終息の気配ございませんが歌舞伎座は三密対策で客席を半減し掛声も禁止です。
 掛声は演出のきっかけになっており、役者も裏方も(大道具や狂言指導者)も頼りにしております。
 大向うが居りませんと舞台進行に支障を来す事態になりかねません。観客も舞台と掛声に挟まれたステレオ効果‥‥芝居見物の醍醐味、面白さが味わえなくなります。
 コロナ下の公演では掛け声が禁じられ、「こんなものは芝居ではない」(九月十九日朝日新聞コラム)、「三日前に開けたサイダーのようで味気ない」(十一月十三日東京新聞、中村雅之横浜能楽堂芸術監督)と散々です。七月勘九郎、七之助兄弟は浅草公会堂で舞踊「厄祓(やくはらい)浅草祭」を無観客で上演。インターネットで有料ライブ配信。大向うを呼び「ご覧の方はチャットなどに掛声をきっかけに『待ってました!』と書き込んでください」(七月十七日東京新聞)


令和3年正月青葉会(丸紅OB・OGを中心とする俳句同好会)会員との吉例の初芝居の会・歌舞伎座前にて。左から二人目が筆者、

六、「春風を連れて通るや木戸御免」    恵州
 昭和三十五年前後の学生時代、NHKラジオの舞台中継収録の前日に歌舞伎座からお呼びがかかり主(おも)だった大学の歌舞伎研究会に掛声の依頼。学習院、早稲田、慶応、中央、明治などの腕(声?)自慢が幕見席に陣取って競演、自分の掛声を放送されると快哉を叫んだものです。卒業して東京勤務なら大向うグループにでも入る心算(つもり)でした。生憎(あいにく)、大阪でした。東京五輪の前年で新幹線や名神高速道が開通、当時土曜日は半ドンでしたから好きな芝居は見ることができ、顔バスも効きました。当時の大阪は歌舞伎、文楽ガラガラ。南座の顔見世だけ例外で切符入手難でした。
 昭和五十九年東京転勤となり、翌年の團十郎襲名興行に出演する機会に恵まれることになりました。歌舞伎十八番「助六」の*河東(かとう)節(ぶし)幹部の誘いに乗り錚々(そうそう)たる顔触れの一員に加えてもらえたからです。
平成十六年海老蔵襲名「助六」に出演(歌舞伎座、御園座、南座、博多座、パリ・オペラ座)。

七、「大向う唸(うな)らす海老蔵涼やかに」(歌舞伎座)
八、「顔見世や『待ってました!』に大歓声」(南座)
九、「掛声を極めて巴里の月夜かな」(シャイヨー宮)
十、「船乗込み海老蔵贔屓の黄色い声」(博多座)
十一、「オペラ座に掛声決めて花に酔ふ」(オペラ座)
 待ちに待った南座顔見世。五ヶ月にわたった難病克服後の舞台復帰を初のパリ公演で果たした團十郎の国内復帰の初お目(め)見得(みえ)が清元舞踊「お祭り」、七ヶ月ぶりに元気な成田屋が登場すると客席は浮き立ち、割れんばかりの大喝采。艶やかな京屋(先代・雀右衛門)が花を添え、きびきびした海老蔵がフランス語で口上。快気祝・襲名祝・文化勲章受章祝(京屋)とおめでた三つ重ね。鳶頭の團十郎に「待ってました!」と一斉にかかる大向うに「待っていたとは有難(ありがて)え」と受ける成田屋。私は幕下(お)りると階段駆け下(お)りロビー奥の成田屋デスクへ。そこで目撃したのは市川ぼたん(今の翠扇)の机に突っ伏して嬉し泣きの姿でした。初めて公開しますが、誰方も居らず私も声を掛けませんでした。
 歌舞伎座の折「待ってました!」「待っていたたあ有(あり)難(がて)え」と都営地下鉄の車内広告の全面に宣伝しており、驚いた次第です。
 この「お祭」は大病から復帰した勘三郎や三津五郎など皆さんやりたがるようですが、大概、再発して他界される例が多いようです。
 最近の大向うは歌舞伎座や国立劇場も公認しているグループ三つあり、結構若い希望者が居るようです。しかし掛声の質は格段に落ちています。役者と客も満足(まんぞく)する達人が払底しています。去年二月元歌舞伎座支配人の金田栄一さんとお会いした折も同じ感想でした。テレビ放映は掛声入ってないと思います(ラジオの場合客席上にマイクあり)。オペラ座の折は入っており、見た人から私の声でしょう?と電話を頂いたこともあります。録画したDVDを再生しますとオペラ座三階席の私も映っておりました。
 めったにありませんが女性の掛声聞いたことがあります。歌舞伎は男性だけの出演で女形の声も男声です。そこへ黄色い掛声入りますと違和感が拭えません。年末の紅白歌合戦の裏番組で「思い出の紅白」に美空ひばりへ「大統領!」と掛声あり、見事にはまっておりました。大阪時代、二代目鴈治郎(藤十郎の父)へ「鴈治郎はぁん!」とのべつ掛けていたおばはんが居りましたが傍(はた)迷惑で鴈治郎も閉口してやめてもらったことがあります。贔屓の引き倒しです。
 二代目松緑(十一代目團十郎・八代目幸四郎の高麗屋三兄弟の末弟、六代目菊五郎の弟子で屋号は音羽屋)は屋号を間違えて掛けられてから大向う嫌うようになり、台詞を息を詰めて続け、巻き舌のこともあり、掛け難(にく)くしておりました。
 大向うの人(ひと)達(たち)は蕎麦屋の主人、鮨屋の板前、大工等の職人がほとんどでしたが、今はサラリーマンが一所懸命稽古して腕上げしている人もおります。しかしボスが偉そうにロビーで大きな顔をしていたり、楽屋で御祝儀頂く、いわゆる楽屋鳶(廊下とんび)を見たりするとがっかりします。私は短気なものですから顔を合わせないようにしております。大阪時代、南座顔見世に出向いてきた大向うで昔気質(かたぎ)のベテランには祇園で一席設けたことありました。歌右衛門(成駒屋)専属の人も居りラジオの声でもすぐ分る穏(おだ)やかな爺さんで地方巡業にもくっついておられた名物男でした。
 歌舞伎座立替え杮(こけら)落(おと)しの初日の前日、朝日新聞記者から昼の部見るならインタビューしたいと電話あり、夜の部にいくと申しますと初日の夕刊に載る由で誰か紹介してとのことで例の弥生会会長を推薦。写真入りで亡き歌右衛門の想(おも)い出話等、大きく載っておりました。私としては大向うグループの一員と皆さんに受取られるのが嫌でしたので、ほっとしました。後日その記者から落語の掛声について取材を受け、名前出てましたが、写真入りではなく、これにも安堵しました。

十二、「成田屋!の掛声圧倒初歌舞伎」      紀久男
十三、「初夢や『大播磨(おおはりま)!』と掛けてをり」    仝
十四、「初芝居馬の足にも声かかる」       仝
 毎年正月新橋演舞場は海老蔵一門、歌舞伎座は吉右衛門らの播磨屋一門と玉三郎ら、国立劇場は菊五郎一家、大阪松竹座は鴈治郎一家。浅草公会堂の松也ら若手歌舞伎は換気困難のため中止です。
 人間国宝、文化勲章、文化功労者受賞して初代吉右衛門系統の至芸を披露してくれている吉右衛門は身体が丈夫ではないため、無理できません。菊五郎、玉三郎と並ぶ最高峰です。もうそろそろ「大播磨!」の掛声してもいい時期かと思っております。

 江戸時代の千両役者と謳(うた)われた團十郎は初代が成田不動尊を信仰し子宝恵まれたことに因んで成田屋の屋号をつけました。大向うは屋号だけ叫んでも芸が無いため、住んでいる町名(松緑は紀尾井町や弁慶橋、芝翫は神谷町など)や「二代目」(吉右衛門)「十五代目」(仁左衛門)など工夫を凝らします。親子共演の場合「豆成田」(新之助)「染(そめ)高麗」(染五郎)等。

 元NHKアナウンサーで歌舞伎通の山川静夫さんは勘三郎の声色で本舞台に出演した程の芸達者ですが掛声でも一方の旗頭(はたがしら)です。紙数尽きましたので次の機会に披露したいと存じます。
 舞踊「馬盗人」は三津五郎(大和屋)のお家芸の一つです。巳之助の曽祖父八代目が踊った時、弟子二人が馬の足を勤めて好評だったこと、大向うから「馬大和(やまと)!」これには馬の中で二人が吹き出していた、と著書には書いております。

以上

(*)河東節(かとうぶし):浄瑠璃の一種。「助六」の舞台で、成田屋の贔屓筋の旦那衆などが舞台にしつらえられた壇に並んでこれを合唱する。

(いまい きくお・1963年入社・東京都在住)


バックナンバー