社友のお便り

2020年08月25日 社友のお便り

ベースボール太平洋を渡る ―両岸での発展と交流の歴史をたどる―

藤田 卓 (1958年入社)

 筆者の藤田様は長年、アメリカ野球愛好会に所属されており、4月に発行された会報誌に本投稿が掲載されました。
「コロナウイルス感染症が拡がる中、ご自宅で過ごす時間も増えたと思います。ステイホームの時間に読んでいただければ‥。」と社友会HPにも投稿くださいました。

 東京神田錦町にある学士会館の一角に「日本野球発祥の地」と刻まれた石碑が建っているのはご存じであろうか。碑文は、「この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。1872年(明治5年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。…」という書出しで始まる。因みにウィルソン先生は、明治政府が数千人規模で欧米から採用したいわゆるお雇いの先生であった。
 明治維新前後のアメリカといえば、南北戦争が終わってベースボールがアメリカ全土に広がり始めていた時期である。選手のプロ化が進み、やがて1869年(明治2年)最初のプロ球団シンシナティ・レッドストッキングズ誕生、続いて1871年(明治4年)初めてのプロリーグ ナショナル・アソシエーション発足(僅か5年で崩壊)、そしてついに1876年(明治9年)現在のメジャー、ナショナルリーグ(8球団)結成へと繋がっていった。
 ウィルソン先生は、自身北軍の兵士として南北戦争に従軍している。多くの北軍の兵士たちが戦闘の合間にベースボールに興じたという話は写真入りで関連書物に紹介されているが、先生もその一人であったに違いない。
ともあれウィルソン先生の指導の下、開成学校の生徒たちはベースボールに夢中になり、数年の間に同校の代表チームは横浜の外人居留地のアメリカ人やお雇い先生の混成チームと戦えるまでになっていた。
 明治初期このようにベースボールが普及していった過程で、アメリカに派遣され帰国した留学生たちが果たした役割も忘れることはできない。その中で最も大きな足跡を残したのは平岡 煕(ひろし)だ。徳川家の家臣という上流階級の出身である平岡は、1871年(明治4年)より数年ボストンに留学、その後フィラデルフィアに移り、そこで機関車の見習工として修業を積み1877年(明治10年)帰国した。平岡がボストン入りした1871年は先ほど紹介したアメリカ最初のプロリーグ ナショナル・アソシエーションが発足した年で、彼はすっかりベースボールの虜となった。リーグの中で無敵を誇ったボストン・レッドストッキングズ(現在のアトランタ・ブレーブス)の熱烈なファンとなり、足繁く球場に通った。またフィラデルフィアでは、見習い工の仕事に励む一方で、発足直後の大リーグの球団フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)のゲームに興じた。
 ベースボール道具一式を抱えて帰国した平岡は、新橋鉄道局に迎えられた。平岡が帰国するちょうど5年前の1872年(明治5年)、新橋-横浜間の鉄道が開通したばかりで、新橋鉄道局は近代国家のシンボル的な輝かしい職場であった。彼は鉄道技師としてのステータスにとらわれることなく勤務時間後、局の管理職クラスにベースボールを教え始めた。そして帰国翌年には早くも日本最初のベースボールクラブ「Shinbashi Athletic Club(SAC)」を立ち上げた。
 SACは、日本で私的会員制クラブというコンセプトを取り入れた最初の組織である。アメリカ帰りということで、平岡はいつも多くの人たちに囲まれていたが、英語を教える傍ら彼らをベースボールの世界に引きずり込んでいった。
 徳川家の一族である徳川達孝もその一人であった。彼は1884年(明治17年)、SACの向こうを張って「Hercules Club」という勇ましい名前のクラブを設立し、加えて港区三田にある自身の広大な私有地に専用グラウンドを建設した。1880年代の東京では、これら二つのクラブの後を追う形で次々と草野球チームが誕生している。
 ウィルソン先生の薫陶を受けた多くの東京大学予備門(一高の前身)の学生もSACの練習に参加し、最先端の技術の習得に励んだ(因みに先生は、東京開成学校が東京大学に改称された1877年(明治10年)任期満了帰国した)。
 平岡が導入した、お揃いのユニフォームでプレーしたり、チーム全員で定期的にローラーをかけてグラウンドを整備したりする光景は、当時の人々には極めて珍しく映ったようだ。人々は、このアメリカ生まれの組織的な団体競技の面白さに次第に目覚めていき、地元の住民に加え、開通して間もない鉄道を利用してやって来る観客も増え始め、ベースボールは都市化されつつあった社会においてスポーツとしての大衆性を確立していった。
 このようにベースボールの大衆性と社会的地位の確立に貢献した私的クラブであったが、1880年代後半(明治20年~)ごろから、特権階級であるクラブオーナーの関心が別の分野に移っていき解散に追い込まれるクラブが出てきた。この世界の中心的存在であったSACも、平岡や中心選手の新橋鉄道局退官とともに1888年(明治21年)解散の憂き目を見ることとなった。
 かかる状況下、これら私的クラブに代わって日本国のベースボールを息の長い大衆スポーツに育て上げたのは他ならぬカレッジベースボールであった。
 明治政府は、この国の教育制度、特に中・高教育制度の確立に取り組み、幾多の紆余曲折を経て、1886年(明治19年)中等学校令、続いて1894年(明治27年)高等学校令を公布し、高等教育制度の骨格を固めた。度重なる名称変更を重ねた挙句の第一高等学校(一高)の誕生であった。
 ウィルソン先生来日から20年余り、その間一高野球部は自己研鑽を重ねる一方、SACなどのクラブとの交流を通じて強力なチームに成長し、この間の日本ベースボールを牽引したのである。注目すべきは、一高誕生の1894年(明治27年)かつて一高野球部で活躍した教育者 中馬 庚(かのえ)がベースボールを野球と名付けている。中馬の心には、アメリカでプレーされ始めたころの光景である「ball game in the field」 がイメージとして浮かんでいたに違いない。
 新しい世紀が始まる前後から慶應、早稲田を中心とする大学野球が急速に人気化した。開学後いち早くベースボールチームを編成した両校は、1903年(明治36年)最初の早慶戦をスタートさせている。その後1925年(大正14年)東京6大学野球連盟発足、またその一年前の1924年(大正13年)夏の甲子園大会(中学校対象)が始まるなど、アマチュア野球がプロリーグ誕生までの数十年間の野球界を盛り上げていったのである。
 一方海の向こうでは、メジャーリーグ誕生からほぼ4半世紀経過した20世紀初頭、丁度日本で早慶戦が初めて行われた1903年、アメリカン・リーグを加えた現在の2リーグ体制が正式にスタートしている。ただ2リーグ誕生までの内情は、端的に言えば混乱を極めていたと言って過言ではない。いくつかのマイナーリーグが盛衰を繰り返し、加えて本丸のナ・リーグも財政悪化や内部の混乱状態が続くといったありさまであった。このような状況下、マイナーリーグの中でも実力と人気を兼ね備えたウエスタン・リーグが台頭してきた。ここで登場するのがバイロン・バンクロフト・ジョンソン(通称バン・ジョンソン)その人で、彼の野望は、ナ・リーグの向こうを張ってもう一つのメジャーリーグを創設することであった。彼は、辣腕ぶりを発揮してウエスタン・リーグの強化を図り、1900年「メジャーとしての体制は整った」と発表、1901年シーズンより一方的にアメリカン・リーグとしてスタートさせた。

スタート時点で、ア・リーグを構成した8球団は下記の通りである

ボストン・アメリカンズ(現在のボストン・レッドソックス)
ボルティモア・オリオールズ(同、ニューヨーク・ヤンキース)
シカゴ・ホワイトストッキングズ(同、シカゴ・ホワイトソックス)
クリーブランド・ブルーバード(同、クリーブランド・インディアンス)
ワシントン・セネターズ(同、ミネソタ・ツインズ)
フィラデルフィア・アスレチックス(同、オークランド・アスレチックス)
ミルオーキー・ブルワーズ(同、ボルティモア・オリオールズ)
デトロイト・タイガース

参考までにナ・リーグの8球団は下記の通り

ピッツバーグ・パイレーツ 
シンシナティ・レッズ 
シカゴ・カブス
セントルイス・カーディナルス 
フィラデルフィア・フィリーズ
ボストン・レッドストッキング(現在のアトランタ・ブレーブス)
ブルックリン・ドジャース(同、ロスアンジェルス・ドジャース)
ニューヨーク・ジャイアンツ(同、サンフランシスコ・ジャイアンツ) 

 世紀が変わってからの数年(1901~1904年)、世間を騒がせたとんでもないドタバタ劇の主役は二人、バン・ジョンソンとあのジョン・マグローであった。ジョンソンは、新生ア・リーグの創設者で発足後長年リーグ会長を務めた実力者(前節参照)、一方マグローはボルティモア一筋の、喧嘩早いが才能豊かなプレイングマネージャーで、発足時のア・リーグ8球団の一つボルティモア・オリオールズを率いた。

 注目すべきはこのドタバタ劇の産物として、当代両リーグ随一の人気チーム、ヤンキースの前身ニューヨーク・ハイランダーズが産声をあげたのだから、歴史とは皮肉なもの、以下一部重複するが、ドラマの粗筋を追ってみる。

第一幕

 ジョンソンのア・リーグ創設計画が煮詰まりつつあった1899年(明治32年)、ナ・リーグは、ボルティモアをフランチャイズから外したため、マグローは翌1900年シーズン、セントルイスでプレーしていたが、契約条件から比較的自由な身であった。そこに目を付けたジョンソンは、ボルティモアをマグローとセットでア・リーグに加入させることに成功した。 

第二幕

 1901年ジョンソンは、一方的にア・リーグのメジャー入りを宣言、既述の8球団でスタートさせた。選手獲得に向けたア・リーグの攻勢は熾烈を極め、新リーグ元年である1901年、ア・リーグに在籍した選手の半数以上は、ナ・リーグからの移籍組であった(あのサイ・ヤングもその一人だった)。一方開幕当初からジョンソンとマグローの軋轢が表面化した。もともと両人は相容れない個性の持ち主で、クリーンベースボールを身上とするジョンソン、一方荒々しいスタイルのマグローの間で、トラブルが絶えなかった。

第三幕

 両者の険悪な関係は翌1902年シーズンまで持ち越され、シーズン半ばついにピークに達し、マグローはニューヨーク・ジャイアンツの誘いに乗ってポロ・グラウンド参上と相成った。まさに電撃的な移籍だったが、ジョンソンは転んでもただでは起きない。もともとニューヨークを本拠とするチームがア・リーグに不可欠との強い意志をもっていたジョンソンは素早く動き、骨抜きになったボルティモアをニューヨークに移し、ニューヨーク・ハイランダーズと命名、大混乱の中で自身の夢をかなえるという荒業を成し遂げた。

第四幕

 両リーグのゴタゴタは翌1903年当初まで続いたが、ようやくシーズン開幕直前に和平協約締結に漕ぎつけた。さまざまな交換条件があった中で最大の合意事項は、「ア・リーグのニューヨーク進出を認める代わりに、ア・リーグは、ナ・リーグ パイレーツのフランチャイズであるピッツバーグに近寄らない」という一文である。なお和平協定締結の過程で、第三者からなる「3人委員会」が設置されたが、あのブラックソックス事件を契機に1920年導入されたコミッショナー制誕生でその使命を終えている。

第五幕

 しかしジャイアンツは、ア・リーグのニューヨーク進出にはあくまで反対の態度を崩さず、そのひずみは翌1904年に現れた。ナ・リーグ優勝のジャイアンツがア・リーグのペナントを握ったボストンとのワールドシリーズを拒否するという形で…。


 

 かくして両リーグ体制は波乱の幕開けとなったが、タイ・カッブ、サイ・ヤングその他数々の伝説的名選手の出現もあり、ベースボールはナショナル・パスタイムとしての地位を確立していった。その間第三のメジャーを目指したフェデラル・リーグ事件、続いて起こったブラックソックス事件などを乗り越え、1920年(大正9年)を迎える。ヤンキースのベーブ・ルース誕生である。彼が量産するホームランにファンは熱狂、ベースボールは、真のナショナル・パスタイムとして、その地位を不動のものとしていった。 
 それにしても筆者が2005年に訪れたクーパーズタウンの野球殿堂、旧ヤンキースタジアム外野席にあったWall of Fame、夫々の入口で真っ先に迎えてくれたベーブの笑顔が今も目に浮かぶ。
 さて新しい世紀を迎え太平洋の両岸で、プロアマの違いこそあれベースボールがナショナル・パスタイムとしての地位を築いていく過程で、両国間の交流も本格化することになる。カレッジベースボール中心の日本からは、早稲田、慶應主体で、いわば武者修行だったに違いない。その中でも特筆すべきは、1905年(明治38年)の3か月におよぶ早稲田のアメリカ遠征であった。日本から最初の海外遠征であり、各地でノンプロチームと対戦する合間に、メジャーのゲームも観戦に出かけ、多くの技術を習得して帰国した。監督としてこの遠征を率いた、日本の大学野球の歴史にその名を残す安倍 磯雄は、帰国後持ち帰った数々のテクニックをライバルチームにも均霑(きんてん)し、野球界のレベルアップに尽力した。
 一方アメリカからは、1913年(大正2年)世界一周に出かけたマグロー率いるチームの日本立ち寄り、1922年(大正11年)MLB選抜、1927年(昭和2年)ニグロ・リーグ ロイヤル・ジャイアンツ、1931年(昭和6年)のMLB選抜、などなど多くのスカッドが訪日しているが、ハイライトは何といっても1934年(昭和9年)のルースを中心とするMLB選抜の日本上陸であった。日本野球界にとってこれ以上の激震はなかったと思われる…何故ならこの国にプロ野球誕生のきっかけを与えてくれたのだから…。
 今回改めて両国のベースボールの歴史に目を通してみて感じた「戦争がベースボールにもたらした光と影」についての筆者の思いを述べ、締めくくりとしたい。
 日米交流がピークを迎えたのは1930年代前半であるが、ゲーリッグを中心としたMLB選抜が来日した1931年(昭和6年)は満州事変勃発の年、ルースが上陸した1934年(昭和9年)は、ヒットラーが総統に就任した年であり、世界情勢は徐々に緊迫の度を増しつつあり、やがて開戦につながっていった。
 2005年筆者がクーパーズタウンを訪れた時のこと、壁に飾られた一枚の古い手紙の前で足が止まった。それは大戦中、当時のランディス・コミッショナーよりルーズベルト大統領に出されたMLB継続の是非を問うお伺い書に対する大統領からの返信であった、「…中断する必要はないと思う。今この国は戦傷者で溢れており、彼らにとってMLBは、かけがえのない娯楽。若者が戦争にとられ選手層が高齢化しても、MLBの面白さは変わらないだろう…」
 野球殿堂を歩き回りながら、改めてこの国におけるベースボールの重みを実感したことが思い出される。
 1941年(昭和16年)は日米開戦の年だが、海の向こうでは、ジョー・ディマジオが56試合連続安打、テッド・ウィリアムズがシーズン打率 .406を記録した年でもある。この二人の超スーパースターはその後入隊するが、激戦地に送られることはなかったという。一方で挙国一致を貫いた日本では、沢村 栄治や景浦 将といったスター選手が戦場で散っていった。この差はどう理解すべきなのか…懐の深い国、いやダブルスタンダードの国という人もいるかもしれない。
 このようなアメリカのしたたかさを示す事例には事欠かないが、最後に一つ挙げるとすれば、あの1934年(昭和9年)ルース軍団の選手の中に、日本で諜報活動を行った選手が紛れ込んでいた、という話である。ストーリーは、「軍団の出発直前に一人の選手がメンバーに加わったのだが、この選手はある日チームを抜け出し今の聖路加病院の屋上に出て、東京の町を入念にカメラに収めて帰国した。その時の映像の数々が後の東京空襲に役立った」という内容だが、素人が撮った写真が高所からの爆弾投下にどの程度有効なのか、などを含め真相は闇の中といえるのかもしれない。

(ふじた たかし・1958年入社・東京都在住)


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