社友のお便り

2020年03月19日 社友のお便り

初めて海外勤務するまで

細井 和男 (1954年入社)

 横浜のど真ん中、中区で生まれ中区で育った。近くに欧米人のスポーツクラブがあって、そこでクリケットやローンボウルズに興ずる彼らをみたり、家から歩いて5分の間門(まかど)の砂浜から沖を行き交う外航船を眺めたり、根岸湾から爆音高くサイパンやパラオへと飛び立つ大日本航空の4発飛行艇を仰いだりして大きくなった所為か、何時とはなしに海の向こうの異国の世界を一度は訪れてみようという夢が芽生えていた。そうした或る日突然戦いが始まる。空襲、焼尽、敗戦、そして占領軍による民主化と戦力に繋がる一切の工業基盤の収奪を目指す、厳しい対日政策が執られる。一般人の出入国は全面禁止され、異国探訪などは望めど叶わぬ夢と潰え去ったかと思われた。
 だが万事塞翁が馬、世の中何が幸いするか分からない。米ソ間の冷戦が進展し東欧や中国で共産勢力が台頭すると、戦後僅か2年余り、非軍事化も未だ半ばの昭和23年初めには、日本をアジアにおける反共拠点として復興させるべしと米政府の政策が一転する。出入国についても昭和24年にIOC委員のローマ総会参加、米・仏などの奨学金による海外留学、著名芸能人の外国公演などの学芸分野についての出国が認められたのを皮切りに、昭和25年初頭には民貿再開に併せ、貿易業務従事者の優先外貨使用による渡航、駐在などが許されるようになる。幼き頃の異国探訪の夢がまたもや湧き上がり、それには先ずは貿易関係であると、辿り着いた先が商社への入社であった。


昭和29年4月丸の内支店赴任時に岸本ビル屋上にて荒川麻課長の写真機にて撮って頂いたもの。右から荒川、八木、勝の諸氏と、筆者

 昭和29年春、43名の大卒新入社員中4名が東京で貿易関連業務を扱う丸の内支店(後の東京支社→本社)に配属され、私は麻課のマニラ麻担当を命ぜられる。支店は日比谷通り馬場先門近くの5階建て岸本ビルの3階にあって、檜山廣支店長以下100名弱の陣容であった。貿易関連の課への所属が決まり異国探訪の夢実現に一歩踏み出せはしたが、道のりは悠遠、気長に機会を待つしかない。岸本ビルで半年、八重洲口の国際観光会館に移り東京支社となって半年、計1年の東京勤務後神戸支店に転勤して2年、本社が竣工し神戸支店の麻関係営業課全てが大阪へ移転してから1年、合計4年に亙り先輩諸兄の指導を仰ぎながら営業と輸入業務の習得に専念する。
 東京においては関東以北の得意先への営業活動と通産省貿易局輸入課への外貨割当金割当証明書の申請手続きに携わり、また神戸支店においては中部以南の得意先への営業活動と輸入業務に携わる。神戸支店は、本社の貿易関連課と異なり運保課や外為課などを煩わすこと無く、各営業課が契約からL/C開設、付保、船積み指図、T/R、自家取り手配、通関手続き、揚地看貫取引(ようちかんかんとりひき)の場合の看貫手配とデビ・クレノートの発行、損害発生の際の海事検定業者との立会と保険求償の手続き、売り先へのD/O発給などを一貫して行っていたので、全ての輸入業務を習得できたことは大変幸いであった。

 何しろ輸出業者のオファー期限が通常24時間、長くても48時間であるのに対し、市外通話は早くて半日、時には翌日まで待機しないと通じないという時代のことである。ほとんどの地区の営業は日帰りか一夜泊まりの出張で行われたが、製綱、製網業者の得意先30数社が集中的に所在する、そして課の売り上げの過半を占める愛知県宝飯郡形原町と西浦町(何れも現在の蒲郡市内)地区については、定宿を形原町に設けて課員一名が毎週交代で常駐し、自転車で得意先を廻り営業していた。朝一番に電報を受領し、その日のオファー内容を把握して得意先を廻る。夕方宿に戻ってその日の売り約や客の注文を打電する。既に形原町においても同一局内通話は直通であったので、電文を予(あらかじ)め暗号で作成し、電報局員に電話を掛け、和文通話表に添って「朝日のア、 いろはのイ、上野のウ」のように読み伝え、復唱させて内容を再確認の上打電を依頼する。遅くも5時半までに打電しないと、それを受けた神戸支店の課員がその日のうちに輸出業者へ打電せねばならぬため、遅れは許されなかった。
 臥薪嘗胆4年にして機会到来、前任者の帰国に伴いマニラ事務所勤務を命ぜられる。昭和33年9月、漸く在留許可が下り、パスポート、航空券、そしていざという際に使用する貴重な外貨$25を手にする。渡航の前夜、夜行列車で国際空港羽田に向かうが、夜というのに大阪駅のホームでは所属部の方々の見送りと万歳、花束の贈呈、そして出発の朝は空港ロビーで東京支社の麻課の方々の見送りを受ける。大変有難くて感激一入(ひとしお)であったが、共同体的な繋がりが社内にまだ強く残されていた当時を思い返すと、懐かしさが込み上がる。
 直行便は無く、米軍政下の那覇空港経由マニラ行きエールフランスのDC6プロペラ機に搭乗する。離陸して窓から東京湾が見えると、かつてその砂浜から飛行艇を仰ぎ見、南洋行きに焦がれていた幼き日の自分が胸を過(よ)ぎる。経由地のトランジットエリアで1時間余りの休憩後、午後3時頃マニラ国際空港に到着、帰任が決まり帰国準備中の中西久次郎事務所長の出迎えを受ける。戦前にも長らく比国に勤務され、現地事情に精通された方である。事務所に向かう社用車内で、今走っているこのDewey Boulevardはマニラ一番の大通りで、米西戦争のマニラ湾海戦でスペイン軍を殲滅した米海軍の英雄George Dewey大元帥を称えて名付けられたとか、条例によりマニラ市内にはナイトクラブが無いが、右側に見えるパサイ市には数店あるのでその内に覗いて見たら良いとか、ルネタ国立公園の傍らを通っている時には、この公園から眺めるマニラ湾のサンセットは世界の三大夕陽の一つに数えられているので是非見ておきなさいなど、マニラ市についての丁寧な説明を頂く。
 


昭和33年9月、マニラへ出発の朝羽田空港ロビーで東京麻課の課員の方々の見送りを受ける。共同体的なしきたりが、まだ社内に残されていた。右から二人目が筆者。

 イントラムロスに到着し、戦禍で廃墟のままに残されたマニラ大聖堂近くのCBN (Chronicle Broadcasting Network) ビル内のマニラ事務所に立ち寄り、全所員に紹介される。夕刻、他の派遣員と社有車に同乗しケソン市にある社宅に到着する。居間兼食堂の広間のテーブル上の竹かごに、日本ではまだかなり高値であったバナナの束が無造作に置かれ、天上扇がゆっくり廻っているのを眼にすると、とうとう南国の世界に辿り着いたかと心が満たされる。2階の寝室で荷物を解き、水しか出ないシャワーを浴び、普段着に着かえて大広間に下りる。夕食を頂きながら先輩諸兄から仕事や暮らしについて細々(こまごま)と教えて頂く。事務所は派遣員10名、家族帯同は許されないので全員が単身で、Cebu Avenue 14番地と16番地の隣り合わせの2軒の5LDKの社宅に5名ずつ別れて住み、朝昼夕3食ともそれぞれの社宅で摂る。事務所への往復は2台の現地雇員の運転する米国車に5名ずつ同乗して行うが、出勤や昼休憩(シエスタ)、退勤の際に、他に立ち寄る予定がある者はジプニーやタクシーを使用する。夜は大広間でトランプをするも良し、日本の週おくれの新聞や雑誌を読むも良し、あるいは最寄りのカクテルバーでバーテン相手に英会話の練習をするのも良い。一寸割高となるがマニラホテルのロビーで日本の昔の歌謡曲をピアノの生演奏で聞きながら水割りを飲むか、まれにはパサイ市まで遠征してナイトクラブの雰囲気を味わうこともできるなどのアドバイスを受ける。ゴルフが割安なので、まずは打ちっ放しで練習をしてから、土・日のあまり暑くない午前中にコースを廻るのが健康にも良いだろうと教えられる。
 1、2週もするとジプニーを使用して市内の繊維検査局や取引先の輸出業者へ独り歩きができるようになる。或る晴れた休日の夕刻、着任時に前事務所長から教えて頂いたルネタ国立公園に赴く。園内にある比国独立運動の英雄ホセ・リサールのモニュメントを見学した後、椰子の立ち並ぶ浜辺近くで日の入りを待つ。やがて水平線に近付くにつれ大きくなり、空も海も濃い橙(だいだい)色に巻き込みながら、めらめらと真っ赤に燃え揺れる太陽がゆっくりゆっくりと沈み始める。浜辺の椰子並木の合間から遥か離れた対岸のバタアン半島の灯影が点々と水平線上に見えて、何とも言えぬトロピカルな雰囲気を醸(かも)し出す。あゝ、これが幼き頃に夢みた南の世界か、そうかこれが世界三大サンセットの一つかと妙に納得し、達成感に満たされる。其の日の夜は、何時の日にか次は欧米の世界を、更には野口英世の散ったアフリカの世界もきっと見てみようと、新たな願いを胸に抱(いだ)いて眠りに着いた。
 後年に北はレイキャヴィークから南はケープタウンまで世界の彼方此方(あちこち)を訪れる機会を得たが、何と言っても初めての渡航先であるマニラ市着任当時の情景が、一番強く印象に残っている。

(ほそい かずお・1954年入社・埼玉県在住)



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