社友のお便り

2019年11月18日 社友のお便り

京都での生い立ちと戦争の記憶

稲垣 洋吉(旧姓:井辻) (1957年入社)

 私は、1933年(昭和8年)10月に京大病院で生まれ、井上章一氏著「京都ぎらい」で一躍有名になった「洛外育ち」ではなく、正真正銘の「洛中育ち」である。京都御所の北東角から50メートル東の今出川通りに面した、父で12代続いた京染呉服を扱う商家が実家であり、結婚するまで実家住まいだった。私は商家の四男坊として、幼児期は、よく言えば自由に、悪く言えば、ほったらかされて育てられたことになる。


1943年(昭和18年)夏 
兄の夏季休暇の両親と4兄弟揃っての記念写真

 昭和一桁当時(1930年前後)の京都では、市電が我が家の前を通っていた。自動車は未だ普及しておらず、馬や牛の荷馬車が飼い主に曳かれて市電の線路と家の間を悠然と通り過ぎる姿を普通に見かける時代だった。のんびりした時代で、「お前は、乳母車に乗せられたまま、家の前を通る市電にぶつかって大騒ぎになったんだぞ!!」という話をよく聞かされた。ぶつかった真相は不明のままだ。似たような話で、父の厄年(数え歳42歳)に生まれた私は、生まれて直ぐに近くの親戚の家の玄関に捨てられた。叔母が「捨て子を拾いました」と我が家に届けたという話を聞かされて、「ひょっとして、自分は捨て子かも」と真剣に悩み、兄達に随分からかわれた記憶が鮮明だ。5歳頃には台風の直後の増水した加茂川の濁流に足を取られ、流されて帽子だけが浮いていたそうだ(同行の兄と仲間たちの言)。必死に犬掻きで岸に辿り着き、九死に一生を得たが、兄たちは親にこっぴどく叱られた。また、節分の屋台で賑わう吉田山で、戦車の玩具に夢中になり父とはぐれて、うろ覚えの夜道を一人で迷いながら帰り、家中が大騒ぎになった。学齢期までのお騒がせ人生経験は懐かしい想い出になっている。

 ところで私の両親は、古来理想とされる「東男に京女」ではなく、真逆の「京男に東女」だ。嫁入り当時の母は周囲から白い目で見られたらしいが、「べらんめえ」調の江戸っ子の男兄弟の中で育っただけに、気風(きっぷ)のよさも手伝い、理解者も次第に増えた。特に子供の教育には熱心だった。母は、京都の老舗の古いしきたりや、うるさい祖母(姑)の存在にはご多聞にもれず随分悩まされながら、4男・1女をしっかり育てた。だが、1941年(昭和16年)、母が一番可愛がっていた末っ子の妹(5歳)が、4月に元気に幼稚園入園後の6月、背中が痛いと言い出し、小児麻痺発病後2週間で急死した。当時は、病院・医院を駆け回ったが病名は不明だった。小児麻痺と判明した時には手遅れで、最後まで意識があり、家族一人ずつ名前を呼んだあとに静かに息を引き取った。可愛いかった2歳違いの妹の顔と、それを見守る家族皆の悲しみに打ちひしがれた場面は今もはっきり目に浮かぶ。私が中学2年次に、妹の生涯をエッセー風に書いた文章が中学の文集に表題「花火」として掲載された。米国・ルーズベルト大統領も小児麻痺だったと後に聞き、改めてその伝染病の恐ろしさに愕然とした。もし当時にワクチンがあればと悔やまれる。以後、気落ちした母は体調を崩すことになった。


1945年(昭和20年)1月
母の葬儀で帰京した兄3人と私

 半年後に日本が太平洋戦争に突入し、次第に戦況が厳しくなるに従い、父の扱う呉服類は贅沢品とされ、商売は低迷、日常生活も苦しくなった。自分の食べる分を削って子供に食べさせるなど苦労の末、1945年1月、母は46歳で亡くなった。この時、兄3人は軍関係の学校に在学中で、母の葬儀にもとんぼ返りという切迫した中で、家族の悲しみの唯一の記録が、兄弟4人の写真だった。私は小4、兄3人は軍服姿の葬儀直後のこの写真を見る度に、戦争が庶民の生活を押し潰した現実が昨日の如く脳裏に蘇る。

 私の戦争との関わりの記憶2件のうち、一つは私が4歳になる1937年7月に日中戦争が勃発し、いち早く戦地の日本軍兵士を慰問する青少年上海慰問団が府県毎に結成されたことだ。旧制中学1年生の長兄が、たまたまボーイスカウトのメンバーで、青少年上海慰問団の京都府代表の一員に選ばれ、ボーイスカウトの制服にリュックを背負った兄を中心に、出征兵士並みの派手な壮行会が行われた。私も家の前で日章旗を手に、大勢の見送りの人たちと一緒に写真に納まり、新聞に載った。記憶では、半月ほどで慰問団一行は帰国したが、兄の持ち帰った品物の中に砲弾の破片、使用済みの薬莢、中国旗の一部などがあり、戦争の怖さを本能的に4歳にして感じたことが記憶の中に今も生きている。

 もう一つは、目にした戦闘体験である。1945年1月に母が亡くなり、3月までの2か月間は慣れない3度の食事を無我夢中で11歳の私が作る羽目になった。食料の配給物資の米、野菜の欠乏と都市ガス供給難の中で、薪で炊く食べ物は今考えてもぞっとする貧しい食事だった。その食事を父が美味しいと褒めてくれた言葉が、何とも言えない苦い記憶として残った。

 3月末になり、急遽、我が小学校の新5・6年生は京都府与謝郡伊根町に、国の命令で強制的に学童疎開することになった。祖母と父の世話を親戚の叔母に頼み込み、先々の不安を抱えたまま汽車と船を乗り次ぎ、遠い若狭湾の伊根町に到着した。新5・6年生約150人は五つの寺に分宿した。船宿でよく知られた漁村で、割り当ての寺は丘の中腹にあり、前が伊根湾で、伊根湾を囲む船宿はのどかな大漁旗も見られる美しい環境のはずだった。が、戦時中のため若い人は戦地に送られ、漁は休業状態だった。伊根湾の正面にある「大島」には、米軍の攻撃を舞鶴港から避けて来た潜水母艦が停泊中であった。この潜水母艦は、木や草で船体を覆い隠した無様な恰好で敵から隠れたつもり(航空機からは、丸見え)だった。

 1945年7月、暑くよく晴れた日の朝8時ごろ、私たちは庭でラジオ体操をしていた時だった。空襲警報が鳴ったので、体操をやめて、本堂に入った。すると間なしに、突如、大島の影から、写真で見た覚えのある米軍のグラマン戦闘機が、機銃掃射を浴びせながら真正面から向かって来た。機体は黒い塊のように見え、操縦している米人操縦士の顔が凄く大きくて彼の飛行眼鏡越しの顔は70年以上経った今も忘れられない恐ろしい鬼のような顔に見えた。私たちは柱の陰から、目の前の潜水母艦が、後続の何機かのグラマン、ポートシコルスキーなどの爆雷攻撃の耳を劈く轟音と銃撃とに晒されて、司令塔は傾き、80人の犠牲者を出しながらも、艦砲射撃で応戦していたのを目撃した。戦争が人命を物質のように扱うのを見たことの衝撃は、体験していない人には理解されない光景だった。その日一同大きな蚊帳持参で裏山に逃げ、一晩まんじりともせず過ごし、翌日寺に戻った。この日は戦争で勝つか負けるかの現実を、目前の潜水母艦の惨めな姿からはっきり見届けた。あの操縦士の顔が私の人生観を大きく変えることになった。

 8月15日敗戦以後の伊根町の2か月は「京都は駐留軍の横暴で無茶苦茶になっている」との流言飛語が飛び交ったが、10月に何とか京都に帰れた。流言飛語とは異なり、兄二人は軍施設から復員していたので、協力して食糧の買い出しや家財道具の換金で急場を凌ぐ毎日だった。1948年(昭和23年)には、ポツダム海軍少尉で、北朝鮮の羅津からシベリア送りになった兄も復員し、祖母・父・兄弟4人は、何とか無事に揃い、父は曲りなりに商売を始め、兄たちや私も学業、就職の道を歩むことができるようになった。

 私の幼児期から小学校卒業までの12年間の日本は戦争の時代で、その後の旧制中学から今日までの思想・経済・政治・文化の激動の70年余の時代は苦しい時代もあったが、日本は米国との安保条約に守られて、戦争に巻き込まれないで来た。実際に戦争を経験しない人が世界の大半を占める時代になった。戦争は、勝者、敗者双方に多大な犠牲をもたらす。更に、スポーツと違い、勝敗の決着は明確でなく、今後も、国・民族・宗教などを巡る紛争は絶えないだろう。次世代の賢明な人々に、日本の将来を託したい。


(いながき ようきち・1957年入社・兵庫県在住)


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