社友のお便り

2019年05月16日 社友のお便り

道草人生反省記 その2

高木 實 (1958年入社)

  第四話 進駐軍がやって来た
    ーーDDTバケツで掛けられた頭は真っ白け、それでも、ギブ・ミー・チョコレート!

 1945年(昭和20年)8月、「ポツダム宣言」受諾、ここに日本は敗れ、太平洋戦争が終結しました。同月末には米軍主体の進駐軍が日本に上陸(マッカーサー元帥が厚木基地に到着、10月には、同元帥を最高司令官とする連合軍最高司令部GHQが設置された)してきました。翌46年(昭和21年)、徳島市内の中学校に入った私、父親が勤める徳島市近郊工場の社宅から1時間ほど掛けて、汽車で通学しました。終戦直後のことゆえ、「客車」などなく、機関車の後ろ、石炭を積んだ無蓋車によじ登って通いました。或る日、よじ登りに失敗し、背中から落下、背骨を損傷し、未だ後遺症の「腰痛」に悩まされています。当時の日本は、復員や引揚者で、都市人口が急増していましたが、輸入は途絶え、政府の統制物資も底を突き、物価統制令下での「配給制度」は麻痺状態、更に、空爆により、交通・流通網は壊滅状態、都市部の食糧難は深刻で、45年(昭和20年)の東京上野駅周辺の餓死者は、1日2.5人、大阪でも、栄養失調による死者は毎月60人と云われていました。このような状況の下、戦時中の強制疎開や空襲の焼け跡等の空き地で、ヤミ市が始まりました。敗戦4日後、 45年(昭和20年) 8月20日、新宿駅東口に開店した露店市が、ヤミ市第1号と云われており、その後、雨後のタケノコのように、全国各地にヤミ市ができて行きます。最初は、野菜をザルに載せ、魚を石油缶に入れて売ったりしていましたが、やがて、ミカン箱に雨戸を載せ、生活用品市のようになり、更には、一間四方くらいのバラックの店ができ、その頃には、どこからともなく、様々な品物が集まって来て、大半は食料品でしたが、飛ぶように売れていきました。我が家の食べ物は、工場周辺の農家で、大半賄いましたが、足りない品は、ヤミ市が頼りです。そこで、私は、放課後、徳島駅前のヤミ市で、母親から云われた食品を買って帰るのが、日課となりました。その日も、小銭を入れてもらう空き缶を足許に、行き交う人に頭を下げる傷痍軍人を悲しく眺めていた私、突然、頭から、白い粉を浴びます。
 
 当時、復員者や戦争孤児が、街中ごろごろしていましたが、衛生状態最悪で、全身虱だらけ、物資不足の当局は何もできず、代わりに進駐軍が、ジープで走り回り、彼等にDDTをバケツでぶっかけ、殺菌しており、ヤミ市をうろついていた私も、その標的になった訳です。驚いて振り返ると、ジープの上で若い米兵が、バケツ片手に、にやにやしています。流石に「コン畜生」と思いますが、その横で、子供達が、ジープの周りに群がり、「ギブ・ミー・チョコレート」、「ギブ・ミー・チューインガム」と口々に叫び、ガムやチョコレートをねだり、米兵が菓子を投げ与えています。かくなる上は、私も群れに入り、必死に腕を伸ばします。しかし少数ながら、このことを「屈辱」と思う子供もいたようで、「さだまさし」は、落ちていた「チョコレート」を持ち帰る気がせず、橋のたもとに置いてきたという話もありますが、私は、それほど「骨のある」子供ではなかったようで、落ちていたチョコレートやチューインガムを拾い集め、家に持って帰りました。

  第五話 静かなる日々――空襲のない毎日、戦後の日課

 終戦2年後の1947年(昭和22年)、父親の東京本社転勤に伴い、一家は東京に戻ります。当時の住まいは渋谷(松濤公園付近)、今の喧騒からは想像できぬほど、渋谷駅から松濤辺りまで焼野原、一直線に見通せました。しかし、空襲警報のサイレンはもう鳴らず、佇まいは静寂そのもの、当時、人々の楽しみは「ラジオ」です。戦時中は、電波管制で1波だけ、「大本営発表」の片棒を担いだNHKも、戦後、NHK第1放送、第2放送という、2波編成に戻り、朝は、6: 25、NHK第1ラジオ体操「朝日を浴びて」が流れます。パジャマのまま、ご近所と一緒に、道端で10分ほど身体を動かし、直ぐ朝食です。背広に着替えた父親は、渋谷駅へ急ぎ、その年、都立中学校2年に転入、板橋まで通学する私も後を追います。休日は、ラジオ体操の後、勤労奉仕、空襲被害の後始末です。「バケツリレー」訓練に使った用水桶、焼夷弾の猛威の前に、「クソの役」にも立たなかった代物、今は、干上がり、木片を束ねた残骸です。これは、タガを外して、薪用にするだけですが、庭のつぶれた防空壕は、掘り起こしが大変、掘った土を横に2メートルほど積み上げ、「築山」を作ります。その間、ラジオから、並木路子の「リンゴの唄」や笠置しず子の「東京ブギウギ」が流れ、「ダイナ・ショア」や「ドリス・デイ」など、耳慣れぬ英語の唄も加わります。何となくウキウキして、作業がはかどり、エンディングは、「鐘の鳴る丘」、当時、戦争孤児や引揚孤児の為、共同生活支援施設が幾つかできていましたが、この連続ドラマの舞台もそのひとつ、孤児達が、肩を寄せ合い生きて行くストーリーでぽろぽろ泣いて、一日が終わります。

  第六話 ヤミ市で花開く戦後文化 ――街頭テレビに黒山の人だかり

 1947年(昭和22年)、渋谷に住んだ私、帰宅前、毎日、道玄坂下のヤミ市で道草です。 NHKは、48年(昭和23年)、戦後初のテレビ実験放送を開始、駅や公園などに街頭テレビを設置していましたが、ヤミ市は、電気屋さんの店先のテレビが、実験放送を流していて、敗戦で落ち込んだ人々を鼓舞する為、日本選手が、世界の頂点を目指し躍動したスポーツ放送にチャンネルを合わせていて、黒山の人だかりです。水泳の古橋広之進が世界記録を連発、ボクシングの「白井義男」が、「ダド・マリノ」を判定で破り、世界チャンピオンに。「力道山」の「空手チョップ」が炸裂する度に、人々は大盛り上がり、万雷の拍手です。私も負けじと、手が痛くなるまで、拍手喝采です。
 ヤミ市は食品・日用品ばかりか、教養文化、趣味の品、何でも売っており、(盆栽や金魚、子犬や子猫もいた)人々は、その中から、今後、生活の糧となる品を買い求めます。こうして、ヤミ市に芽生えた花芽が、一輪また一輪、世の文化として、開花するのです。ところで、私の花は?それは、次回に譲ることに致します。(編集部注:原文ママ)

(たかぎ みのる・1958年入社・千葉県八千代市在住)


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