社友のお便り

2019年05月16日 社友のお便り

道草人生反省記

高木 實 (1958年入社)

「プロローグ」


 

 「私の人生」とは、何だったのだろう?意味はあったのだろうか?85年も生きていると、この長くして短い「人生」、客観的に見るとどうだったのか?自問することがあります。
 「一生かけて、やり遂げるべき目標と正面から向き合い、愚直にフォローする甲斐性に欠け、目先きの興味で、あれこれ手を出し、結局、世間への貢献は、何一つできなかったじゃないか」との答えが返って来ました。「そうか、やっぱり、本道を外れ、道草を食ってばかり、意味のない人生だったか」と反省して見ても、後悔は先に立たず、人生は二度と還りません。それなのに、戦時中の幼少期、戦後、欧米文化に憧れた青少年時代、1950年末頃からほぼ半世紀、経済成長とともに、眼の前だけ見ながら走って来た成壮年期、想い出だけは、ぼろぼろと甦ります。何はともあれ、八十有余年、振り返って見ました。「反省記」と銘打ち、浮かぶがまま個人的エピソードをタテ軸にしましたが、期間は昭和の64年と平成の30年の大半、いろいろありました。矮小な私的回顧譚に流れぬよう、折々の世相にスポットライトを当て、「時代を語る」ストーリーを心がけました。その意図、何処まで表現できたか、自信はありませんが、「暇つぶし」に「斜め読み」していただければと思います。

  第一話 ドーリットルの3,600キロ   ―――太平洋戦争勃発、帝都初空襲から三島にたどり着くまで


 

 1941年12月、真珠湾攻撃。国民学校(41年4月、それまでの小学校が改称)2年当時、東京本郷にある学校に通っていましたが、開戦後僅か数か月、42年4月、「帝都初空襲」(いわゆる「ドーリットル空襲」)に遭遇します。サンフランシスコから太平洋を横断、日本列島東方海域に到達した空母ホーネットを発進した、ドーリットル中佐指揮のノースアメリカンB-25中型爆撃機16機が、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などを奇襲攻撃、うち2機が、東京上空に侵入したのです。不意を突かれ、警報のサイレンは鳴らず、対空砲火も間に合いません。コックピットの中が見えるほど超低空で、東京市内(現在の東京23区)を、低速で飛び回り、爆弾数発を投下、機銃掃射の後、埼玉の方角へ飛び去りました。機体上部に主翼が付いた高翼型で、垂直尾翼2枚の双発機の後ろ姿、未だ瞼に残ります。
                   

 爆弾は、早稲田界隈に落ち、早稲田中学校庭にいた生徒2名が死亡、「本土空襲犠牲者第一号」になります。大本営は、「敵機9機撃墜」と発表しますが、多くの市民が目撃したこの空襲で、敵機の墜落現場を見た者はなく、発表は誰も信用しません。日本にとって初めて帝都を蹂躙されたこの日、それまでの勝ちいくさが一転、敗戦への坂道を転げ落ちるターニングポイントになりました。一方米国は、真珠湾以来の負けいくさで、国民の間に漂い始めた「厭戦気分」払拭の為、退勢挽回を模索、「日本本土空襲」が効果的として、フランクリン・ D ・ルーズベルト大統領自ら発案の計画実行を急いでいました。

 航続距籬が短い艦上機による攻撃は、空母が日本沿岸に接近せねばならず、以後戦局の鍵となる機動部隊が危険に晒されるとして、作戦担当の米海軍参謀が、日本列島から200キロ、日本軍哨戒線ぎりぎり外側海域に空母を停泊させ、この空母から航続距籬の長い陸上爆撃機を発進させることを思いつきます。だが、滑走距離の短い空母の飛行甲板から陸上爆撃機を発進させるのは至難の業、この決死飛行に志願した陸軍航空隊員の中から、技術上位の24名を選抜するとともに、搭乗機B-25も、発艦しやすいよう、不急の装備を外し軽量化します。更に、超高難度のこのフライトの指揮は、並の空軍士官では務まらないと、当時空軍テストパイロットを退役し、シェル石油に入社、石油事業広報活動の為エアレースに参加して、主要国際レースで5回優勝のジミー・ドーリットルを復役させて指揮官に据え、実戦訓練に入ります。空母からの発進訓練は、飛行甲板を外れ海上に転落するという失敗を繰り返した末、隊員2機が発進に成功、これで確率ゼロではないことが判ったとして、本番で何機か発進できれば、日本本土空襲後、中国へ飛び、国民党軍支配下の飛行場に着陸すれば良いと、この作戦を見切り発車したのです。

 なお、空襲後のドーリットル隊は16機のうち15機が計画通り日本列島を横断、中国に向かいます。ホーネット発進後、13時間、3,600キロを飛び中国上空に達しますが、国民党軍の受入れ体制不備で、飛行場着陸は叶いません。4機が不時着失敗で大破、11機は落下傘で乗員脱出を図りますが、日本軍占領地域に降下した8名が捕虜となり、銃手など3名が、都市無差別爆撃と非戦闘員銃撃の「戦時国際条約」違反の罪で処刑されます。ドーリットル自身、こうした結果に、作戦失敗と思い込み、軍事裁判での処罰を覚悟しますが、この奇襲攻撃が、日本軍部に与えた衝撃の大きさは計り知れず、更に、「本土空襲」を阻止せんと、日本海軍機動部隊が迷走したことも、以後の作戦に影響を及ぼし、正にルーズベルトの思惑通りになったのです。

 一方、この2年後には、サイパン、グアムが落ち、地上発進のボーイングB-29大型爆撃機による本格空襲が始まりました。当時、米国陸軍航空軍第21爆撃隊の指揮官に、悪名高い力ーチス・ルメイ(後に原爆投下も指揮)が着任、その指示で空襲の規模は拡大、手口も巧妙且つ冷酷になります。 B-29の最大積載量まで満載した焼夷弾で、木と紙の日本の家屋を焼き尽くす焦土作戦が始まり、45年3月、「東京下町大空襲」で非戦闘員 10万人を殺戮、日本全土に被害が拡がって行きます。同年5月には、500機のB-29で焼夷弾3千トンを投下するという「山の手大空襲」を敢行、ルメイは「東京空襲総仕上げ」と嘯きます。その結果、帝都は全滅、目白の我が家も焼け落ち、家族は伝手を辿って静岡県三島に疎開、一方、私は、44年に閣議決定された「学童疎開促進要綱」で始まった、集団疎開の先頭グループに組み込まれ、家族と別れ、栃木県那須に向かいます。当初、食事は農家の炊き出しなどもありましたが、間もなく疎開者自身による自給となります。けれど、都会から来た教師達に、食糧調達ルートがある筈もなく、食材不足で 1日2食が関の山、生徒達、すきっ腹では、勉強どころか、遊ぶ元気もありません。折しも、東京ほか大都市は壊滅、空爆は地方都市に及び、栃木県内の各都市も空爆される事態に、生徒の安全を担保すべき教師の責務は何処へやら、「家族の疎開先があれば、そこに行って欲しい」との学校側の要請です。私は、身の回り品と勉強道具を入れた風呂敷包みを担ぎ、三島を目指します。小学校3年秋、敵機の影に怯えながらも、歯を食いしばった一人旅でした。

  第二話 名誉の栄養失調  ―――空爆下の欠食児童、口に入れば、何でも食べよう


 

 三島では、母親が東京から持参した着物を、農家で米など食料と交換していましたが、やがて農家には、食糧目当てに疎開者が持ち込む着物が溢れ、着物では食糧が貰えません。痩せた土地でも育つ薩摩芋を家の周りに植え、食用にしますが、じきに薯ばかりか、葉や茎も食べ尽くし、食べ物はなくなります。戦争はたけなわ、成人男子は出征中、銃後は、年配のご婦人と中学生が働き手、我々小学生が下働きです。毎日の勤労奉仕で、お腹ペコペコ、田圃や道端の雑草、田螺(たにし)や煌(いなご)、蜂の子、蛙、口に入るもの、何でも採って来て空腹を満たします。

 気味悪がった母親に叱られますが、お腹優先です。やがて三島も空爆、この頃には、制海権・制空権を奪われ、近海を遊弋する米艦の艦載機が日常的に飛来、機銃掃射が危なくて、食べ物漁りはできません。「ひもじさ」を通り越して、栄養失調です。近くの竹藪に、「やぶ蚊」がわんさと居て、刺されたところが膿んできます。「総蛋白欠乏症」の子供たち、全身できものだらけです。戦線が伸びきって兵站が届かず、兵隊が飢餓に苦しみ敗走した南方戦線と同じ展開ですが、こちらは、やぶ蚊に刺され、「名誉の栄養失調」といった体たらくです。

  第三話 そして終戦  ―――徳島へ、蓄音機と切腹の夏


 

 戦争末期、父親が東京から徳島にある工場に転勤します。これに伴い、一家も三島から四国に引っ越し、その道中、豊橋、浜松、名古屋、大阪など、東海道沿線都市は空爆直後、何もない焼け跡が、残り火で燻ぶっていました。四国行連絡船待ちの岡山宇野港で空襲警報、船は欠航、桟橋に並べたスーツケースの上で横になりますが、寒いし怖いし眠れません。ほうほうの態で辿りついた徳島、さすが関西の台所、食べ物は充分で、元々徳島に居た祖母が炊いてくれた「銀シャリ」を、夢中で掻き込み、飲み込みます。「よく噛んで食べなさい」、また叱られます。空爆と空腹からは解放されましたが、「本土決戦」になれば、「米軍は四国に上陸」との噂で、国民学校では、授業はそっちのけ、毎日、藁わら人形を、竹槍で突き刺す訓練です。実際上陸されていたらと、身の毛がよだつ話なのに、当時は、皆大真面目でした。国民学校6年、45年8月終戦、カンカン照りの暑い日でした。父親が、クラシック音楽レコードを聴くため特注した、時代物家具という風情の蓄音機兼ラジオの前で、当時、工場長だった父親に集められた幹部職員達が、玉音放送を聴きながら泣いていましたが、ラジオの雑音もひどく、子供たちには、陛下のお言葉が全然判かりません。そこへ、ご近所の退役軍人の方が、放送を聴き切腹したが、死にきれず大変!との話が飛びこみ、放送謹聴は中断、大騒ぎになりました。年配の温厚な方でしたが、子供にこの方の心情を慮る思慮などある筈もなく、どんなに痛いのだろうと、皮膚感覚だけが先に立って耐えきれず、家に帰り、布団をかぶって泣いていました。因みに、偶々、帰省中だった現役陸軍中尉のご子息が、拳銃で介錯され、長くは苦しまなかったとのことでした。当時、同じ心情の方、多数おられたでしょうが、その心、子供には理解すべくもありませんでした。でも、思い出すだに、心証的に深い痛みが刻み込まれた体験でした。

(たかぎ みのる・1958年入社・千葉県八千代市在住)

本編は、まだ完結しておりません。筆者は続編を執筆中ですので、追加の原稿が到着次第、随時掲載して参ります。第四話以降も、ぜひご期待下さい(編集部より)。


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