社友のお便り

2015年09月01日 社友のお便り

忘れられない「塩の三国間取引」

中野 貞夫 (1961年入社)

筆者近影

 それは絶対に忘れられない出来事でした。今から40年ほど前、イエメン塩を韓国のT化学と長期契約し、1万トン満船ベースで売っていた、無機化学品部の課長時代の話です。マイナス20度を下回る真冬の韓国から帰国したばかりのある日、突然、イエメンの製塩メーカー、Yソルト社から電報が入り、間もなく入港予定の当社手配船には塩を積めないので、船積みはキャンセルしてくれと言ってきました。

 客先にはノンデリによって生じる、ソーダ灰生産の連続工程が停止することに対する損害賠償、船会社にはデッドフレートの支払いなど、億を超える損害が予想され、課の存続すら危ぶまれる状況であったため、Yソルト社に対して、「これから直ぐ行くから…」と打電して、同社からのステムコンファメーション(具体的な船名と、希望積み込み数量、船のおよその到着予定を買い手が連絡して、それに対する売り手からの積込みの確認)の電報を持って、その日のうちに40度を超えるイエメンに向けて出発しました。途中、カイロのイエメン大使館で、普段は発給に2-3日かかるビザを、係官に事情を説明して直ぐに入手し、超スピードで首都サナアから紅海に面したホデイダ経由、そこから更に少し北に寄った所にある、塩の積み出し港のサリーフに到着しました。


 その時すでに、港には台湾のバイヤーが手配した船が3隻到着していましたが、Yソルト社では岩塩を生産するためのダイナマイトが不足しており、1-2隻分の塩しか積めない状況であることが分かりました。 Yソルト社の社長に、「当社は積む約束をしたステムコンファメーションを貰っているのだから、もし、そちらが船積みを拒否した場合、国際裁判になって、こちらが勝つことは明白だ。」と主張、一番先に積むよう強硬に要求しました。 さらに、「台湾バイヤーの船はステムコンファメーションを取っているのか」と聴いたところ、「年間50万トンの契約したので、ひと月に4-5隻、自動的に配船してくる」と言うので、「積み出しにはステムの確認が決め手だ」と頑張り、何とか先に積んで貰うことを承知させました。ところが、その時点で我々が用船した船はまだ到着しておらず、もし社長の気が変わって、台湾バイヤーの船に先に積まれたら大変と、一日千秋の思いで船の到着を待つことになりました。毎晩、夜中に沖に見える船の灯りを数えていましたが、いつも3隻分の灯りしか見えず、沖の暗闇に目を凝らして、わが船の到着をイライラしながら待つ日が何日も続きました。 これほど船の到着が遅く、時の経つのを長く感じたことはそれまでありません。台湾のバイヤーにしてみれば、彼らの積み込みを邪魔しているのは私ひとりなので、何となく身に危険を感じ、外出する時は、銃で武装したボディガードに守られながら移動しました。

 Yソルト社の社長に、「もう待ちきれないので、明日には台湾バイヤーの船に積み込みを開始する」と宣言され、絶望的になったその夜中、何度数えても船が4隻になったことを確かめ、やっと来てくれたと、先ずひと安心。翌朝、台湾バイヤーと激しい口論になりながらも、Yソルト社の社長に我々の船に先に積む指示を出させ、積み込みが始まって、もうひと安心。しかし、完全に積み込みが終わり、船が出港するまでは油断出来ないと、心を引き締めて完了を待ちました。船が無事に出航した時の喜びは、今や世界一の生産量となった、西豪州のダンピア塩の第1船を日本の港に迎えた時の感動の何倍にも匹敵するものであり、何十年経った今でも、わが人生で一番嬉しい思い出となっています。浜谷源蔵さんの教科書に学んだ貿易実務の原点があれほど役に立った事にも、非常に感慨深いものがあります。台湾の会社はその後まもなく、この時の損害がきっかけで倒産したと聞いています。

 窮すれば通ず、塩の三国間取引で起こった、災い転じて福となったもうひとつの出来事があります。昭和47-48年ごろだったと思います。インド塩を台湾の苛性ソーダメーカーに売る契約をし、船腹を日本のS海運から用船して積み出したところ、その船には以前に中国に寄港した経歴があって、台湾への寄港と揚げ荷役が許可されないことが分かりました。元々はS海運の不手際によるものですが、積み荷の塩が処理されないことには、その船自体も次の予定が立たず、塩も宙に浮いてしまうことになります。我々は直ちに次の代替船を仕立ててインド塩を積むことを決断し、台湾のメーカーに対しては、納期の多少の遅れで事が済みました。さらに、この船の塩を急遽どこかに転売することを目論み、私は直ぐに韓国に飛びました。心当たりの韓国の客先に片っ端から面会を申し込み、最終的に、一番高く買ってくれる顧客に転売の契約をすることが出来ました。ひとつのピンチが倍の商売に化け、結果的には、韓国の客先に喜ばれるとともに、S海運にも非常に感謝されるという嬉しい決着となりました。

 塩の三国間取引では、いろいろ困難な問題が起こり、特に当時は、国際電話が手軽に利用できる時代でもなかったことより、大変な事態の中でもがき苦しんだこともありましたが、この二つの出来事は、忘れられない楽しい思い出です。

 当時のイエメンは、まだ長い鎖国を解いて開国したばかりで、日本の大使館もなく、男はナイフかピストルを必ず持っていましたが、モカのコーヒーと岩塩が自慢の、のどかな国でした。そんなイエメンが、現在は、内戦の混乱状態の中にあるということに本当に心が痛みます。同国に早く平和が戻るよう、心から祈っています。


(なかの さだお・1961年入社・東京都杉並区在住)


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