社友のお便り

2016年01月01日 社友のお便り

「あの日」ダラスにて

小松 義人

本稿は、狙撃されるほんの2-3分前のケネディ大統領夫妻をパレードの沿道から見送った、当時ダラス駐在の社友、小松義人さん(1956年入社)から編集部がご自宅でお伺いした内容をまとめたものです。お話を伺ったのは奇しくも大統領暗殺から52年目(日本風に言えば53回忌)の前日でした。


 1963年11月22日、あの日、私は丸紅飯田綿花会社の一員として、米国テキサス州ダラスに居ました。
入社して2-3年目の頃、当時は羊毛部と並んで当社花形部門のひとつと言われた綿花部に所属していた私は、59年に、テネシー州メンフィスにあった、綿花検品人資格取得のための専門学校に入学、3ヶ月勉強して首尾よくその資格を得てから、テキサス大学で短期間勉強させて貰った後、ダラス出張所に配属されたのです。63年7月に出張所は、丸紅飯田綿花会社という現地法人に改組されて、当時は、社長以下本社員4名、米国人スタッフ6名の布陣だったと記憶します。「あの日」は、綿花担当の海外駐在員として働き始めて3年目、仕事にも習熟し、その直前に結婚もして、公私とも充実した生活を送っているところでした(ダラス勤務はその後も66年まで続きます)。

 当時のテキサスは、保守的で、人種差別、特にアフリカ系アメリカ人に対する差別が公然と残る土地柄で、リベラルで、所謂WASPに属さないアイルランド系・カソリックのケネディ大統領の人気は高くなく、反感を隠さない人たちが地元のジャーナリズムを含めてむしろ多数派を占めていました。大統領選挙を翌年に控えて、てこ入れのような感もあった大統領夫妻のテキサス訪問だったと思います。


当時のダラスの現場概念図

 大統領夫妻、出迎えのテキサス州知事などを含む車列は、ダラス空港を出発、歓迎宴や演説会が予定されていたダラス・トレード・センターに向かっていたのです。その13階に綿花会社のあった、コットン・エクスチェンジ・ビル(Cotton Exchange Bldg.) はパレードの通るメインストリートから至近距離で、私もそのパレードを見るべく沿道に立ちました。正直に言いますと、お目当ては、大統領本人よりも、むしろ魅力的なジャクリーン夫人の方でした。パレードと言っても、上記のようなケネディ大統領の人気が必ずしも高くない土地柄もあるのでしょうが、例えば日本の皇太子ご成婚のパレードなどと比べれば人出もさほど多くなく、静かなもので、目の前を通過する夫妻を間近に見ることが出来ました。ジャクリーン夫人は、ほんの一瞬見ることができただけですが、テレビで見るより美しいと感じたものです。妻も市内の別の場所で、パレードを見送ったようです。

 所期の目的を達成してオフィスに戻ると殆ど間を置かずに、メキシコのカリフォルニア州国境近くにあったメキシカリ出張所(カリフォルニア側のメキシコ国境近くにあったカレキシコ出張所や綿花会社とともに、綿花取引専業の海外店)駐在の友人Z君から電話が入りました。出てみると「ケネディ大統領がダラスで撃たれたとニュースで言っている!」というので、思わず「そんなバカな、つい今しがた、本人を目撃したばかりだよ!」と言い返しました。しかし、気がつけば、すでに事務所の中もその話で騒然としており、どうやら本当らしいと、急いでオフィスを出て、今通ってきたばかりの道を早足で戻りました。先ほどパレードを見送った地点から更に行った所で、向こうから戻ってくる人たちに混じって、一人のアフリカ系のかわいい少女が、大きな眼に涙をいっぱい溜めていたことを印象深く覚えています。ケネディ大統領が、差別を受けている弱い立場の人たちの希望の星だったことの証左かも知れないと感じたものです。


写真は二枚ともダラスの小松邸のテレビに写った国葬の模様

 エルム通り(Elm Street)の狙撃現場(その時はそうとは知る由もなかったですが・・・)は、オズワルドがその6階からライフル銃で狙撃したとされる「教科書倉庫ビル」(Book Depositary Bldg.)の周辺を含め、ものものしく武装した州兵達によって包囲、封鎖されていました。当然のことながら、大統領を乗せたオープン・カー(防弾ガラスで覆うことを、市民と隔離されることを嫌ったケネディ大統領が断ったとも言われている)はとっくにフル・スピードで、緊急手術の行われたパークランド病院(Parkland Memorial Hospital) に向けて走り去った後でした。

 暗殺の当日から、ワシントンで国葬の執り行なわれた11月25日までの3日間、全米は大統領に批判的だった人たちを含めて、完全な服喪の期間に入り、テレビは事件に関する報道や大統領の業績などを伝える番組のみとなり、娯楽番組やコマーシャルは一切自粛、商店も一斉に休業するなど、静かな悲しみに包まれていました。全米がこぞって喪に服した、後にも先にも経験したことのない独特の厳粛な雰囲気を鮮明に覚えています。テレビで国葬が放映された際の、長女キャロライン嬢(当時6歳)のあどけない姿は全米の涙を誘いましたが、そのキャロライン嬢が立派に成人し、今や、堂々と駐日大使を務めている事実には深い感慨を覚えます。

 因みに、その日は、翌年の東京オリンピック開催を控えて、日米衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)の実験放送が予定されていましたが、それが急きょ大統領暗殺という世紀の大事件を伝えることになったため、私の出身地である長野の新聞社から国際電話(今のように国際電話が日常茶飯事でなかった時代です)で事件について取材を受ける羽目になり、それが地元の新聞のみならず、テレビでも取上げられるという一幕もありました。すっかり「時の人」になっていたよ、と後から地元の友人たちから聞かされました。

 事件のその後の推移や、政治的な陰謀説があることなど、多くの謎が残されていることはご承知のとおりですが、私がここで語る立場でもなく、その必要もないと思います。ただ、早くも半世紀以上が経った今でも、忘れることの出来ない衝撃的な一日でしたし、ケネディ大統領が運び込まれた、そのパークランド病院で、その3年後に長女が生まれたことも含め、私と家族にとって、ダラスでの「あの日」は、特別の意味を持っているように思われるのです。


(こまつ・よしと・横浜市在住)


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