今年12月13日で78歳になります。これまで紆余曲折は有りましたが、中国人の家内と9月から中学3年生の息子と元気で前向きな生活を深センで過ごしています。中国語圏での生活は32年になります。
振り返ると私の人生で4つの大きな Turning Points が有りました。
地中海岸のホテルの風呂場の瞬間湯沸かし器の不完全燃焼で、翌日の朝意識不明で発見され、
後遺症で5年間苦しみました。足立本部長のご配慮で1976年に仕事上担当したことが無かった台北支店に転勤となり、
台湾大学精神科の林教授(北海道大学卒業)の治療を受けて、後遺症は1年後に無くなりました。
ガス中毒前までは中近東、アフリカの市場を担当しておりましたが、台湾の水が合ったのでしょう、
電力、石油化学等大きな契約に成功しました。
ガス中毒は人生の大きな Turning Point となり中国語圏への突破口となりました。
1986年北京支店に転勤し、機械、建設部門を担当してそれなりの実績を挙げました。
この間、円高が進み、東芝機械に端を発したココム制裁、天安門事件(日本に帰らず)等色々な問題が発生しましたが、
前向きに対処して解決を図りました。
台湾、中国での経験を活かして、香港ベースで中国商売の展開を図り、
退職後は自分の会社を設立したいとの提案が中藤総代表のご尽力、プラント本部関係者のご支援、
北村香港会社社長のご理解を得て、1990年4月に香港会社へ転勤しました。
具体的案件としては Shell の45万トン石油コンビナート計画、石油精製プラント、香港の新国際空港建設、
不動産開発、自動車、建設機械販売等有りました。
1994年3月丸紅停年退職と同時に、香港にFGM社を中国へのプラント、不動産開発、
建設機械、自動車販売への協力を主な目的として設立しました。紆余曲折有りましたが、今日に至っております。
その間深セン日本商工会の事務局長を2004年9月から4年間務めました。
就任当時、参加企業は約330社、日本人は約1,500名で事務局は三菱銀行、会費は富士銀行が徴収し、
独自の事務局は無く専任事務局長は居ませんでした。
中国政府から商工会を公認してもらう為に、独自の事務局を立ち上げ、
専任の事務局長を雇用したいとの方針が有りました。事務局には僅かな繰越金しかない為、
会費を値上げして必要な資金を確保し、独自の事務所の開設、職員の雇用が最初の課題でした。
商工会会長は日本人学校の設立に熱意を抱いておられました。当初実現は容易で無いと判断されましたが、
広州総領事館の支援も得て、2008年4月開校出来ました。十分な繰越金が出来、体制が整ったので、事務局長を辞めて、
本来のFGMの仕事に戻りました。4年間で沢山の中国人、日本人と知り合いになり、FGMの仕事に役立ちました。
現在、FGMは Main の仕事として CITIZEN がデパート、販売店で Show Case 内で時計を展示する為の木工、
アクリル Stand, Tray 等のOEM生産をしております。
1997年結婚し、1997年12月長男が誕生しました。家内は私と干支で3周り離れた猪です。
日本人感覚を持っており、料理、掃除、整理整頓が生き甲斐で専ら専業主婦です。
時折、食い違いが発生しますが、年齢差を考えて、上手く処理しています。
息子は幼稚園から小学4年まで深センのUSAの International School に通いましたが
中国語を Master するために小学4年途中から全寮制の中国の International School に席を置いております。
英語、中国語は Native ですが、日本語はあと一歩です。
高校卒業後は日本の習慣、日本語に馴染ます為に日本の大学へ留学させたいと考えています。
これまで沢山の人に助けられ、幸せな現在が有る事に感謝し、今後、一期一会のモットーで人と出会い、
健康に留意して好奇心を持ち続け前向きな余生を深センで送りたいと念願しています。
(ふじた まさひこ・1960年入社・香港在住)