特別企画

2016年04月01日 特別企画

わが心の故郷、信州佐久

市村 雅博 (1972年入社)

筆者近影

 私自身は東京生まれの東京育ちである。かと言って、いわゆる江戸っ子というわけではない。父親が長野県北佐久郡(現・佐久市)の生まれ、母親が新潟県の南部、中頸城郡(現・妙高市)の生まれだからだ。この二人が、上野駅で出会った。終戦直後で混雑する信越線の列車が上野駅に着いた時、うら若い女性が大きな荷物を抱えて難儀をしていたので、まだ若かった、のちの父親が持ってあげたというのが、わが両親のなれ初めだったと聞いたことがある。それはさておき、父親の生まれ故郷は、信越線の小諸駅から更に1時間以上も掛かる辺鄙な場所にあった。それも、夕方小諸に着けば、バス(今で言う、ボンネットバス)に小1時間揺られて、村の停留所から徒歩で5分という道のりだったが、夜行で早朝に着けば、小海線に乗り換えて約30分、岩村田という駅で降りても、そこからまた30分以上歩かねばならず、寝起きの子供にはひと苦労だった。今でこそ、近くに工業団地が出来たりして大いに開けているが、私が子供の時分は、周囲に田畑の広がる、まさに田舎そのものであった。村には市村の本家もあったが、父親は新宅と呼ばれる、分家の三男坊だった。徴兵はされたが戦地に行くことはなく、戦後就職のために上京したのちは、毎年旧暦のお盆と正月には律儀に実家に帰省していた。母親は同行することもあればしないこともあったが、私は必ず一緒に連れて行かれた。昭和30年代の実家には、父親の両親(私の祖父母)、長兄夫婦(私の伯父伯母)とその子供(私の従兄弟)達と、さらにその子供までいて、親子4代、総勢12名の大家族だった。専業農家で、稲作、野菜づくりのほか、養蚕のために桑の葉をかなり手広く育てており、夏休みに実家に行った時には、よく耕運機に載せられて桑畑に行き、蚕の餌となる桑の葉摘みを手伝った。当時、実家の2階はすべて蚕棚で埋まっており、お腹を空かせた蚕が口を開けて桑の葉を待っていた。そのうち蚕は繭を作るので、それをまとめて農協に搬入する。ある時、繭玉を3-4個貰って東京の自宅に戻り、夏休みの自由研究として学校に提出したことがある。もちろん、絹糸までは出来なかった。


昭和34年夏、湯川で
妹と魚採り

 実家は、湯川という千曲川の支流のほとりにあり、夏休みの頃は、川の一部をせき止めて自然のプールを作り、子供達を遊ばせていた。湯川の土手からは雄大な浅間山が一望出来、悠然と煙をたなびかせるその姿は、子供心にも青雲の志を抱きたくなる、素晴らしい眺めだった。

 夏休みに父親の実家に行く、もうひとつの楽しみは信越線での列車の旅だった。当時は、上野から小諸まで、蒸気機関車に牽引された信越線の急行で7-8時間も掛かっていたが、途中、碓氷峠を超える時だけはアプト式(註)の電気機関車3~4両に連結し直し、急坂をあえぎながら登って行った。碓氷峠は往時から交通の難所で、信越線が明治初期に一部開通してからも、横川駅と軽井沢駅の間だけは馬車で結んでいた。それでも明治の半ば、多くの犠牲者を出しながら26のトンネルを掘り、さらに前述のアプト式を採用することで、碓氷峠にも列車が走るようになったが、当初は機関車が吐く煤煙のせいで、機関士も乗客も地獄の苦しみだったようで、早期に電化が検討された。最終的に、明治の末に、この区間だけ電気機関車での運用が始まったが、その後も、この区間の輸送力増強とスピードアップは、鉄道関係者の大きな課題であったらしい。と言っても、小学生の私はそんなことは露知らず、横川駅での待ち時間に名物の「峠の釜めし」を味わい、峠の途中の「熊の平」駅では、マッチ箱のようなケースに入ったアイスクリームを買って貰い、トンネルを通過する毎に、1から26まで数え上げるというのが、旅の大いなる楽しみだった。

 佐久の冬は、雪が少ない分、とんでもなく寒い。当時は水道がなく、朝、庭の井戸端まで顔を洗いに出るのだが、身体が縮み上がるほどの寒さでも、井戸の水が温かいのに驚いた。そして、正月の楽しみは、名産の鯉をぜいたくに使った「鯉こく」だった。当時、東京ではほとんど口にすることがなかったので、子供心にも、これは美味い!と大喜びだった。親類同士でも家ごとに少しずつ味は違ったが、濃厚で甘い味噌仕立ての味とおもてなし料理の定番としての位置づけは共通だった。


昭和36年冬、湯川の土手で妹、
従兄弟の長女と

 我が家では父親が50代半ばで亡くなり、墓を東京近郊に建てたので、それから伯父伯母も逝った後、実家が従兄弟の代になると、子供の頃、あれほど通った信州佐久へも自然と足が遠のいた。それでも、私の心の中に息づく雄大な浅間山の姿と佐久の風物には、今も大きな愛着を持っている。私自身、変に生真面目で融通が利かないという信州人のDNAを父親から受け継いだような気がしているので、佐久は、私にとって心の故郷と呼んで良いだろう。現在は、その田舎近くに長野新幹線(北陸新幹線)も通り、上信越自動車道も開通しているので、行こうと思えば、所要時間は昔と比べて大幅に短縮されたが、日頃ご無沙汰の従兄弟たちとの精神的な距離は大きい。とは言うものの、たまには先祖の墓参りを兼ねて、あの雄大な浅間山をもう一度眺めに行ってみたいと思っている今日この頃である。

 註:アプト式とは、2本のレールの中央に歯型のレールを敷設し、車両の床下に設置された歯車とかみ合わせることで急勾配を登り下りするための推進力と制動力を強化する、ラック式(歯軌条)鉄道の一種で、2枚または3枚のラックレールおよび歯車を、位相をずらして設置する方式を指す。ドイツ人のカール・アプトが1882年に特許を取得したので、この名前がある。日本では、碓氷峠で初めて実用化された。

(いちむら まさひろ・1972年入社・千葉県柏市在住)


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