特別企画

2016年04月01日 特別企画

「自分にとっての故郷(ふるさと)」わが故郷、小浜

白井 俊和 (1972年)

 小生にとって、生まれてから高校卒業までの「幼・少・青年時代」と、社会人となってかなり時を経た「中高年・老年時代」の生活の土地は、偶々同じ兵庫県内にある。従い、常識的には、兵庫県が「自分にとっての故郷」ということになるだろう。
 商社マンとして脂が乗っていた「壮年時代」の生活・勤務の土地である、東京や東南アジアに対しても溢れる想いがあるが、今回は兵庫県、それも生まれ故郷の町に絞って、記してみたい。
 小生は、昭和23年、宝塚市小浜と称する土地で、地元では旧家の部類に入る白井家の初孫として生まれた。家は兼業農家。父は大手銀行に勤務する傍ら、時に農業を手伝い、消防隊での業務にも従事していた。温和な祖父は養子で農業専業、祖母は農作業を手伝いながら、市の教育委員などもこなすキャリアウーマンであった。

 家の庭には、後に市から保護樹木に指定された、楠の大木があり、その下に小生がよくよじ登って遊んでいた懐かしい雑木が数本と毎年数個の美味しい実がなる山桃、そして、沢山の実がなる柿の木があった。子供の頃は、それらを長い柄の先に二股が付いた道具で捥ぎ取っていた。また、なぜか不思議な事に、可愛らしいお稲荷さんの祠もあり、その近くには小さな家庭菜園もあった。


小浜皇太神社

 更に、その東側には、牛小屋、離れ屋、中庭、そして2階建ての母屋があった。2階は藁などを蓄える空間となっており、1階が家族の集まる居間、食事場所となっていた。居間からは階段を通じて登れるナゾの物置部屋があり、幼い小生の探検場となっていた。そうそう、その居間には、なぜか、梁(はり)から木製のブランコがぶら下っていて、祖父によく遊んで貰った記憶がある。ブランコの揺れる先には、2階の藁置き場につながる吹き抜けの空間があり、夏でも暑さを感じることはなかった。その代わり、今思うに、囲炉裏などはなく、冬は寒かったのではないかと思われるが、不思議なことに、家の中で寒さに震えた記憶はあまりない。夏涼しく冬温かい、理想的な日本家屋の空間だったのかも知れない。

 我が家の北側、3軒隣りに当たるところに、小浜の産土神でもある、“小浜皇太神社”があり、前庭には槇や楠などの大木が数本あって、楠の一本には昔、落雷を受けた大きな穴が開いていた。社務所の前の低木の枝に大きな蛇が、身に過ぎた獲物を呑んでしまったのか、死んでぶら下っていたことを今思い出した。神社の裏庭はさほど広くなく、その西側は大きな崖となっていて、その裾に小川が流れていた。その先には夏、カエルの鳴き声のうるさい水田が広がり、そこからは宝塚市街も一望出来たし、更にその向こうには六甲山系の端があった。


豪摂寺

 皇大神社を北に15分ほど行くと、“売布(めふ)神社”、そして、東側に阪急電車で1駅行くと、“中山観音(中山寺)”、西側に1駅乗ると“清荒神(清澄寺)”があり、それらの北側は低い山が連なっている。町内には、豊臣家ゆかりの寺、毫摂(ごうしょう)寺などもあった。

 小生はこのように多くの自然と神社仏閣に囲まれた、とても恵まれた空間で若き日を過していた。その幸せを今さらながらに思う。

 そんな幼少時の思い出の中から、印象深く記憶に残っていることを下記に挙げてみよう。

 祖母と一緒に畑作業から戻る途中で、白い子犬を拾ったことがある。“シロ”と名付けて小生が独占的に可愛がっていたが、数年後、なぜか突然行方不明となり、ついに帰って来ることがなかった。多分、当時の“犬獲り”にやられたのだと想像するしかないが、小学校高学年の頃の哀しい思い出である。

 子供の頃、よく夜の庭でボンボンベッドに寝転んで、飽きることなく星々を眺め、目に見えない無限の宇宙空間を空想し、宙(そら)に吸い込まれるような思いを募らせていた。最初は肉眼で夜空を見上げるだけだったが、のちに、祖母が望遠鏡を買ってくれた。とても嬉しかった。その後、本を通じて知った、東京大学の畑中武夫教授(天文学)にハガキを出し、返事を貰ったこともある。

 中学から中高一貫教育の私立に通った。そのため、6年間に亘る夏冬の休暇を自分で計画して自由に過すことが出来た。勉学、好きな読書(と言っても濫読の類だが…)、自転車での市内散歩や前述のとおり、星ウォッチングと、様々に楽しんだ。そのお蔭か、高校2年生の時に、地域の公立・私立の高校生2・3年生全員が受ける模擬試験でトップを取り、両親は欣喜雀躍していた。


小浜首地蔵

 さて、最後に、誕生の地、小浜(旧名は小濱)の歴史を少しだけ振り返る。平安時代に周辺が陸化するまでは、瀬戸内海が深く入り込んだ小さな浜だったらしい。9世紀に国府が置かれ、売布(めふ)神社が創設され、15世紀末には一向宗の寺を中心に、城砦寺内町としての勢力を発展させた。江戸時代に入ると、有馬街道の交通の要衝となり、宿場町(小濱宿)として大いに栄え、“海の町・堺”に対し“陸の町・小濱”と称されたこともあるようだ。明治以降も小浜村としての時代が続いたが、昭和26年、町制を敷くに当たり、宝塚町と改称、その後、29年に隣村を合併して市制を採用、現在の宝塚市小浜になったとのことだ。近所には、首から上だけの巨大なお地蔵さまが2体祀られている場所がある。その謂れについては、諸説あるようだが、今では、“首地蔵”として市の観光名所となっている。


(しらい としかず・1972年入社・兵庫県川西市在住)


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