特別企画

2016年04月01日 特別企画

「自分にとっての故郷(ふるさと)」偉大なる我が故郷、佐賀 ~肥前の国 鍋島藩と明治維新~

與賀田 正俊 (1954年)

 私の生まれは、九州佐賀県の佐賀市呉服町です。「佐賀んもんの歩いた跡は草も生えん(標準語訳:佐賀出身の人が通った跡には草も生えない)」との言葉を初めて耳にしたのは数十年前のことでした。最初私は、此の言葉が佐賀人への褒め言葉か、若しくはその反対か迷いましたが、当時、橋田寿賀子の連続テレビ・ドラマ「おしん」の夫・竜三が佐賀出身であり、その姑にあの可憐な「おしん」が散々イビラレ苛められた時から、この言葉は佐賀人への蔑みの言葉として世間に認識されていると思いました。

 今回、私は日本の近代化への大改革であった“明治維新”の時代に、当時大貧乏藩であった鍋島藩(佐賀藩)が見せた、あの薩長勢に勝るとも劣らぬ活躍ぶりと彼等が歩いた足跡に茂って育った沢山の草木(成果)について書いて見たいと思います。

 明治維新は一般には薩長が主体となった大改革と思われていますが、実は薩長以上の働きをし、当時としては薩長と同じく、或は彼等以上に時代を先取りしていたのは、我が故郷・肥前の国「鍋島藩」でした。


 先ず第一に、「大隈重信公」について述べて見たいと思います。彼は天保9(1838)年、佐賀藩上士の家に生まれ、明治4(1871)年から6(1873)年にかけて、当時米欧亜の先進諸国の調査の為、派遣された政府の岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、久米邦武他50数名)の留守部隊を任され、その中心にあって、その使節団の帰国までの約2年弱の間に、廃藩置県直後の未だ不安定な維新政府を縦横無尽に操縦しました。大隈が残した主な実績は、工務省・内務省の創設、新島襄を取り立てて郵便制度を創設、鉄道施設の推進、学制・義務教育の実施、徴兵制の実施、太陽暦の実施、租税の為の地租改革等枚挙に暇がないほどで、 明治新政府の基礎固めに尽力し、明治14(1881)年の政変で下野するまで、大蔵卿として実質的に明治新政府の財政を担って、わが国の近代国家としての財政の基礎を確立しました。又、早稲田大の前身東京専門学校の創設者です。


鍋島閑叟公が祀られる佐嘉神社

 第二に鍋島藩は幕末までに日本一の海軍力と軍事力を備えた藩でありました。それを主導したのは藩内で超質素、超倹約を旨とした藩主・鍋島閑叟公です。日本の近代は、明治維新の西欧文明の摂取から始まったものでは無く、江戸時代中期の、決して欧米に引けを取らない時期から近代を先取りしていたと思われます。これを証明するものとして、慶応元(1865)年、世界漫遊旅行の途次、日本に立ち寄ったシュリーマンが彼の旅行記の中で、「…この国は平和で、総じて満足しており豊かさにあふれ、…世界のいかなる国よりも進んだ文明国である。何故なら産業技術において、彼らは蒸気機関の助けもなく、達せられる限りの非常に高度な完成度を示しているからである。」と書いています。


佐賀城鯱の門(大手門)と続櫓

 此れは次の事実からも明らかです。当時佐賀藩では、前述の大隈が藩校での朱子学一辺倒の教育に反発、蘭学寮へ転じ、藩としても当時から時代の風を読んで英学を目指し、長崎の幕府の英学寮に藩士30人の派遣を進める一方、藩内で経済政策を進言する「代品方(かわりしながた)職」を長崎に赴任させていました。この役職は佐賀藩独特の役職であり、此の人たちを使って幕末時点で佐賀藩は名実共に日本一の海軍力、技術力(蒸気軍艦、アームストロング砲などの製造)を確立していました。そして外国からの軍艦の購入や製造材料の輸入に充てる資金として、米に加えて、特産品の有田焼、伊万里焼、白蝋、石炭、和紙、小麦、煙草、木綿、鉄、硫黄、大理石、辰砂などの換金作物を奨励して、国内外に輸出していたのです。


幕末佐賀藩の政治の中心となった
佐賀城本丸

 また、慶応3(1867)年のパリ万博に、佐賀藩は佐野常民を代表として参加させ、出品箱数は政府の246箱、薩摩の225箱に対し、何と526箱も出品しています。これらを主導したのが、当時の藩主、鍋島閑叟公その人です。

 以上2点は、佐賀鍋島藩の偉大さを示すほんの一例です。紙面の関係でほんの一部しか紹介出来なくて残念ですが、実際 幕末には佐賀藩は公称 35.7万石 でしたが、実質は90万石以上の実力だったと学者の間では言われています。


歴史民俗館内展示の
アームストロング砲前の筆者

 最後に、「明治維新」当時、我が国の近代化に貢献した鍋島閑叟公、大隈重信公以外の肥前・佐賀藩の人たちを紹介して終わりたいと思います。カッコ内は主な業績、役職。

 佐野常民(種痘、海軍、蒸気車等)、島義勇(蝦夷開拓者)、枝吉神陽(肥前の吉田松陰)、副島種臣(外務卿、内相)、久米邦武(漢学者、歴史家)、大木喬任(初代東京都知事、司法卿、内相)、辰野金吾(建築家 東京駅・日銀)、江藤新平(司法卿、文部大輔)、相良知安(ドイツ医学)

 本文の一部は、私が現在所属する米欧亜回覧の会の資料を参考にしています。


(よがた まさとし・1954年入社・東京都練馬区在住)


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