新春企画

2024年01月01日 新春企画

私が丸紅飯田(当時)に入社したころ!

関 晃典 (1965年入社)

筆者近影

 私が当時の「丸紅飯田」に入社したころの色々を、何時も懐かしく思い出す年になってしまいました。

 入社に当たっては、当然、入社試験がありました。入社試験の当日はちょうど東京オリンピックの期間中で、私は「オリンピック青少年キャンプ」に参加しており、キャンプのユニフォームで面接に行ったことを、懐かしく思い出します。当時の入社試験の面接では、当時の「檜山社長」が面接されていて、私はおとなし過ぎて商社マンには向いていないのではと、檜山社長はおっしゃり、私の丸紅受験を勧めていただいた当時の秘書室長の「小島 正興氏」が大丈夫ですよと推薦いただきやっと入社できたことで、私のサラリーマン生活が始まりました。
 いよいよ、入社と入社研修です。入社式は大阪本社で行われ、新入社員は全員、独身寮生活を一か月過ごしての入社研修でした。

 近所の「バー」に行き、帰りにお勘定をしようとしたところ、ママさんが私たちの胸にある「バッチ」を見て、「丸紅さんね、ツケにしていきなさい」と言われ、私たちは凄い会社に入社したものと、感激したのです。
 さて、研修が終わって配属先の発表があり、私は「経理部」と言われ、営業部で海外にも行って仕事をしたいと思って丸紅に入社したのに?と当時ガッカリしたことも思い出します。

 経理部での仕事開始です。でも、私はほとんど何もできませんでした。最初の仕事は帳簿付け、伝票の集計(当時は、パソコンもカシオの計算機もありません)、帳簿の右左も何なのか分からず。伝票の集計はソロバンですが、これも一本指操作です。隣を見ると、先輩女子社員の方が伝票をただ捲っているのを見て、何をしているのだろうと思ったところ、捲りながら暗算で集計をしていたのには脅かされました。まだまだ、学生気分の抜けない新人が驚いたことはたくさんあります。現役社員の皆さんには、とても想像できないと思いますが! 電話交換室には、数十名の交換手が勤務していました。また、英文タイプ室には100名近い社員、和文タイプ室にもやはり100名近いタイピストが勤務していました(船積書類はすべてここで処理されていたのです)。
 また、私が一番手を焼いたのが、書類全てがカタカナ書きで書類を読むことに本当に苦労したこと思い出します。

 今のようなコピー機はなく「オザリット(湿式の感光複写用紙)」による「青焼き」、社内どこでも喫煙可能など今では考えられない社員生活でした。
 海外勤務を希望するには海外渡航試験、昼休みの「ソロバン教室」、社員総出の「園遊会」、初めての「IBMのコンピューター設置‐二階を床補強するほどの重さ」、コンピューターの磁気テープでは、月末決算が終わると社員がそのテープを抱えて、大阪本社に新幹線で運んで合算する業務。

 今では、考えられないようなことばかりでしたが、今その頃を振り返ると、なんともアナログな時代が懐かしくてなりません。しかし、そういった時代を経て、現在のICT社会を築く礎になったのか?とiPhoneも満足に使えない老人元丸紅社員の独り言です。

(せき あきのり・1965年入社・神奈川県在住)


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