新春企画

2023年01月01日 新春企画

福祉事業に携わって

坂口 堯朗 (1964年入社)

養老の滝にて

 1964(昭和39)年春大阪本社羊毛部の営業部門に配属されて以来、丸紅を卒業するまで天然繊維原料である羊毛の取引に従事しました。
 繊維素材の業界では徐々に市場が縮小しつつあった羊毛の取引は、商社間のシェア競争が厳しくまた相場商品でもあったため、利益確保に四苦八苦した思い出の方が多い現役時代でした。
 しかしこの間、出向も含めて期間の長短はあったもののシドニー・ソウル・バンコク・シンガポールと13年間海外生活ができたことは商社マンとして何よりの経験であり懐かしい思い出です。
 定年後は現役時代取引関係で大変お世話になった南海毛糸紡績(株)が運営主体の社会福祉法人 南海福祉事業会(初代理事長 元丸紅専務 木村修吉氏)が大阪府の要請により既設の特別養護老人ホームの運営を急遽引継ぐことになり、介護はもちろん福祉事業に関して特に知識もないまま、特養 フィオーレ南海(入所定員 50名)の事務長として要請されるままに働くことになりました。
 本社勤務時代は片道45分の通勤が、関空に隣接する田尻町にある施設までは2時間かかり、宿直も月2~3回担当しましたが、この宿直時を活用して一年間の通信教育で社会福祉全般に関する知識と社会福祉主事任用資格を得ることができました。
 施設は当時は珍しかった“拘束をしない介護”で評判となり府下の介護施設からの見学やNHKの取材もありました。
 職員の中で唯一子供心に戦争(空襲・疎開・終戦)体験のある私は入所者からは随分頼りにされ職員を側面から手助けすることができましたが、同時に介護現場の仕事の厳しさと苦労を実感させられました。

 2年後、法人本部の業務部長に異動しましたが、本部は敷地内に認定保育園と公益事業の福祉専門学校を運営しており、園児と多くの若者に囲まれながら主に地域との交流に努めました。そしてこの間、本部の所在する高石市が関西地域では最初の公立保育所の民営移管を実施することになり、これに応募し選ばれたものの、民営化は保育の質が低下するとの理由で保護者から強烈な反対にあいました。このため法人の代表として園長予定者や市の担当者ともども数回に及ぶ反対保護者への説明会を開催、苦労のすえやっと認可 東羽衣保育園(定員 140名)として移管されることになりました。
 ところが新保育園の運営が軌道に乗り始めた1年後、園長が脳梗塞で急逝、民営化を通じて市の担当者・保護者対応等、園の実情が一番解っているとの理由で突然園長に就任することになりました。
 前園長の“子どもは叱らずに育てよう”の保育方針を継続、現場は主任以下全ての職員に任せ、何かあれば私が全責任を取るという覚悟でスタートしました。
 実際に0歳・1歳児さんとの接触はほとんどできませんでしたが、2歳児さんから上の園児さんとは園庭・ホール・部屋で、運動会・発表会・遠足・散歩等々を通じて本当に楽しい日々を過ごすことができました。そして5年間保育園に勤務しましたが、子供たちの命の大切さ、保育の大切さをしみじみと感じさせられ、これらに携わる保育士さんの日々の努力には頭が下がりました。
 通算して10年間、福祉事業会でお世話になったのち7年前、西宮市の定期健康診断で初めて飲んだ胃カメラで、胃ではなく十二指腸に腫瘍(初期のガン)が見つかり、結果として膵頭十二指腸切除手術(12時間)を受け、3カ月弱の入院治療を余儀なくされました。手術直後は体重が12キロ減少しましたが、おかげさまで現在は元の体重に回復しました。
 最近は手術前は目標一日一万歩のウォーキングは三千歩の散歩にダウン、下手の横好きで楽しんでいた月一ゴルフも卒業、会員として参加していた日本タイクラブでの活動もコロナ禍で休眠中、もっぱら読書(新書の乱読)と昼寝で“日々是好日”一日一日を大切に過ごしています。

(さかぐち たかお・1964年入社・兵庫県在住)


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