新春企画

2023年01月01日 新春企画

兎年の記憶

衞藤 研次 (1973年入社)

 私は1973年入社、1951年2月の早生まれです。同期のほとんどは丑年、寅年ですが、私は少数派の兎年です。72歳の年男といっても特段の所感というようなものはないので過去の年男の際に何をしていたか思い出してみました。

12歳/1963年2月(昭和38年)

 故郷の小学校で1カ月後に迫った中学受験のためにせっせと勉強していたと記憶しています。ただ、この年は珍しく大雪が降った年で、家の前の坂道を2歳年上の兄と即席で作った橇で滑って遊んでいました。受験の前に滑って遊ぶという無邪気な時代でした。丸紅のことなど全く知りませんでした。

24歳/1975年2月(昭和50年)

 大阪本社で勤務、お客さんのいる高知県に出張しては営業活動として大酒を飲むという生活でした。出張でなくても先輩、同期、後輩と飲んでばかりでしたが。休みの日は下手の横好きながらサッカーをやっていて業務とは直接関係ない友人知人ができました。その方々と現在も交流している72歳の自分を想像したことはありませんでした。

36歳/1987年2月(昭和62年)

 従業員組合専従(書記長)をやっていました。当時は社員数も多く専従は委員長以下5名いました(ちなみに書記長はNo.4 です)。まだ春闘華やかなりし頃で2月は月例給のベアや賞与額の要求額や各種福利厚生案件改善要求の準備で忙しかったのを覚えています。他の営業部門や管理部門の優秀な人材と知己となることができた充実した時期でした。個人年金導入協議の中で朧げに72歳頃の自分を考えましたが具体像は思い浮かびませんでした。

48歳/1999年2月(平成11年)

 ドイツ・デュッセルドルフで日本のメーカーと設立したJVに出向していました。4月の帰国を前に引継準備で忙しかったはずですがあまり覚えていません。これはJV相手の企業風土、異国の商習慣と文化がないまぜになっていた世界に長期間いたことと関係しているかもしれません。なお引越し準備をあまり手伝えなくて家人が怒っていたのはよく覚えています。いずれにせよ、この時期は72歳の自分などに考えが及ばなかったことは確かです。

60歳/2011年2月(平成23年)

 5年前に転籍した事業会社にいました。営業以外の内部管理をやっていましたが従業員組合専従時代やJV出向時代の経験が役に立ちました。この時期は事業会社管理方法の変更を受けての体制見直しをしたり、税務調査や内部監査などに対応したり、忙しくしていました。この頃になるとさすがに定年後のことを具体的に考える様になりましたが、その行きつく先は結局仕事から解放されて休みたい、一休みした後は遊びたい、仕事ではなく海外にぶらっと行きたい、ということでした。



 あと1カ月程で72歳となる年男は、ここ3年程のコロナ禍で巣籠りを強いられてすっかり元気がなくなり、ゴルフもしばらくやっておらずこれから何をしたものやらと思案投げ首の今日この頃です。


丸紅OBと現役の方々と


(えとう けんじ・1973年入社・東京都在住)


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