新春企画

2021年01月01日 新春企画

輝いていた丸紅飯田

酒井 尚平 (1961年入社)

日本画が趣味、絵は京都高瀬舟の船着き「一之舩入」です。

 昔噺で恐縮ながらご笑読願います。
 1961年市川忍社長の丸紅飯田に入社、大阪で初めての給料日に、仲間と小料理屋で乾杯、女将が「胸のバッジと名刺あれば、キタもミナミも付けが利く、会社の信用を大事に働きなさい」と祝ってくれました。「アフカムラ・チロエサタ・正長寿」の与信用語(社内で使われた数字の符丁)を覚え、当社は信用限度無限と、MIバッジを誇りにつけていました。
 東京支社で上司から、商社マンはお客様に信用されて「なんぼ」、服装、礼儀大切にと言われ、スーツを銀座で仕立て、靴は東京駅で磨いたものです。英語指導は厳しく、電信・レター案に、たくさん朱筆を入れられ閉口しましたが、丸紅Five letters code(英文を5字アルファベットで短縮したもの)が良くできた参考書でした。
 業界で三菱・三井が強く、当社含み3M(スリーエム)と言われ、J-Vは客先に信用されました。美術部霜葉会の先輩から、3M美術展を毎年開催したと聞きました。海外出張すると役員から翌月10名くらい呼ばれ出張報告と質問あり、昼飯の定番「鰻重」が楽しみでした。
 数年後、初めての海外勤務で比国ネグロス島に赴任、支店長に中古車購入を申請すると、「新車で自分を売り込め、一流ドイツ車で目立つ色で」と言われ、彼の地で行状は一目瞭然となりました。当時から比国の丸紅は商社でトップと言われていました。
 大手町ビルは、電話でいつも騒然、財務部長席、タイプ室、通信、電話交換台には仕事を早めるため、手を揉んで顔を売ったものです。毎日残業してから一杯、土曜勤務、マニラに1泊2日出張も、若さで乗り切れたと思います。
 1972年、図らずも組合専従委員長になりましたが、賃上げ要求が盛り上がっていました。労使協議は話し合い中心、団交は長く深夜まで続き、 檜山社長、伊藤専務から、経営についても組合の意見を聞かれました。世間の労組は政治色強く、デモもある対決路線。当組合は批判されましたが、上部団体無用と脱退し、自社流の労使交渉を続け、ベ・ア25%増の結果を得ました。本社が大手町から竹橋に移り、社名が「丸紅」に戻ったころです。商社が花形になり、当社が就職人気1位になったことも覚えています。
 そして、丸紅飯田が輝いていたころ、私のヒラ社員は終りました。丸紅はその後も成長を続け、キタの女将の激励をよく思い出しました。戦前生まれで、幼・青・壮・老を通じ、激動の時代、多くの方々からご指導、お付き合いをいただいて、豊かな経験を重ねることができ、心より感謝しています。現在、湘南の社友が集う、湘紅会の世話人として、社縁地縁の交流を楽しんでいます。

(さかい しょうへい・1961年入社・神奈川県在住)


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