新春企画

2021年01月01日 新春企画

江戸っ子ボンボンがナニワの商社マンに!

広瀬 隆 (1972年入社)

 宝塚市在住の広瀬隆です。令和3年丑年72歳年男を迎えますが、ご要請もいただき、1972年入社~2012年リタイア間の丸紅勤務40年史を中心に目下の心境等を以下綴ってみました。

 勝手ながらお題名:江戸っ子ボンボンがナニワの商社マンに! です。


お孫さんと一緒に

 簡単に自己紹介しますと1949年東京・銀座<昔で言うと木挽町>生まれで、実家家業は染物屋でした<現在も兄が3代目『紺屋の廣瀬』を次いでいます>。10歳の時に偶々近所で接待受け?で来ていた巨人・長嶋選手に遭遇、即友達と押し寄せ触りたくった!!のが切っ掛けで野球気違いとなり、父親に神田・ミズノのグローブを買ってもらい、それからは毎週日曜日には佃の渡しに乗って当時埋め立て中の晴海埠頭で終日野球をしてましたね。ところが中学<現在の銀座中学>に入ったら校庭が狭くて野球ができずで、結果バスケット部に入りそれから10年間ズーっと大学卒業までバスケをやっていました。
 前置きが長くなり失敬。1972年は竹橋の新ビル完成でして当然そこで勤務スタートと想っておりましたが研修3日後の辞令配布で「大阪本社繊維資材部農工資材課」となり愕然としちゃいました。バスケ対抗戦で関西訪問は数度ありましたが全く未知の土地にて不安でしたね。案の定、勤務初日、当時は即営業課配属にて電話の受け答えも必要にて受話器を取った迄は良かったのですが電話口で何を喋っているのか全く分からず 『わかりません』と隣のアシスタント女性に渡すと『広瀬さんはアホね!』と関西弁<厳密には彼女は在泉大津=河内弁だったそうです>で一喝されてしまいました。余談ながら10年ほど前に同部のOB/OG会がありまして彼女と再会、即、腕組み!されちゃいました。素敵なおばあちゃんになってました。
 そんな時に明るく声を掛けていただき激励・指導いただいたのが小川和夫先輩<後に専務>でした。歓迎会で分かったのですが先輩も江戸っ子で、当時から放映開始の「フーテンの寅さん」の『葛飾生まれの柴又育ち云々』の口上を披露され、また、小生の名前を『シロセ君』と発音され祖父と同じ「ヒ」⇒「シ」でして、まるで江戸の兄貴!!でしたね。豪州語学研修生転出迄の僅か2週間ぐらいでしたが諸事ご指導いただきました。
 また、当時の繊維資材部長:佐脇鷹平様<後に副社長>の課長他への叱咤激励ぶりは遠目ながら大迫力でして、一方で、垣間見れる笑顔がまさに人間力!と拝見しましたね。小生も5年間上述課で頑張ったつもりでしたが、いかんせん集中力??続かず、佐脇部長から「染屋のせがれ!は、色の着いた繊維の方が良かろう!」とのご判断<後日転属先部長談>で紳士衣料部へ異動となりました。
 転属部では衣料用生地販売<カジュアル衣料及びスポーツウェアー用>担当でしたが所謂OEM製品供給も始まっていまして、学生時代にはバスケ・オフシーズンにはスキーをやってましたので大変興味を感じ、以降は何か仕事の主体性みたいなものも感じつつ、相応に会社への貢献も果たせたように思います。
 1977~1987年の紳士衣料部勤務を経て87~90年のソウル支店勤務、その帰国後も同部で5年間課長と順調にきまして何とか「ナニワの商社マン」的になっていたかと。


『ひろせ』のどら焼き

 ところが何事も一筋縄では行かず、一転95年に名古屋支社転勤となり97年には銀行も巻き込んだ粉飾取引先自己破産に遭遇、当時はマジ退職も覚悟と家内と話をしてました。何とか管理部門からのヘルプもいただき、98年からは東京本社で事業会社の統合稟議、あるいは 2001-2年には問題事業会社清算とか所謂V-PLAN関連で裏方役もさせていただきました。
 そしてまた、2004年には何と入社時にお世話になった小川専務から大阪本社・企画管理部長へのご推挙を賜りまして「やれやれ」と帰阪させていただいた次第です。2004~12年<最後の5年間は丸紅サービス勤務>は大阪ビル移転関連での諸事項解決でしたが、特に女性陣スタッフ皆さんの貢献大で大いに助かりましたね。退職記念には我がふるさと??銀座・木挽町のどら焼き屋「よしや」(小中の同窓生)で『ひろせ』のどら焼きを作ってもらい、小川先輩会社<MSYS(丸紅情報システムズ)>にもお届けに参上してます。

 良く人生の流れで「起承転結」と言いますが、小川先輩には小生丸紅勤務の「起」と「結」の大事な局面で関っていただき正に大恩人!であります。その小川先輩が去る8月にご逝去されました。未亡人は小生入社時配属先課の旧知の<明るくチャーミングな>方にて早速弔文等を送らせていただきましたが、何とお墓は小生の廣瀬家の墓と同じ浅草でしたのでコロナ禍終息後にはご一緒にお墓参りを!とお願い中であります。改めてご冥福をお祈り致します。

 最後に72歳を迎える今の心境について、ですが、何はともあれ健康で、そして早世してしまった父<42歳癌>の倍=84歳迄は頑張って生きる!を目標に、と想っています。東京に孫ちゃん2人いますが幸いにも、我が家の40歳のパラサイト長女?が何と神戸在住の男性と一昨年結婚、さらに昨11月に女児出産!と相成りまして何とかそのセーラー服姿を一目観る迄は!と想っております。

(ひろせ たかし・1972年入社・兵庫県在住)


バックナンバー