新春企画

2020年01月01日 新春企画

故郷の神戸に住んでいます

徳田 浩次 (1960年入社)

 私は、三度の海外駐在を含めエネルギー本部で約40年を過ごしました。この40年の大半(1967年から2000年)は生まれ故郷の神戸を離れて東京と海外で過ごしましたが、退職後はまた神戸で暮らしています。生まれてから84年の人生の半分以上、特に幼稚園から大学まで、人格形成の基と言ってよい学園生活をすべて神戸で送りましたので、自分は神戸っ子であると、自負を持って言い切れると思います。テニスの大学東西対抗戦の代表選手となり、青春を謳歌したのも神戸っ子としての懐かしい想い出の一つです。

 神戸は1858年幕府がペリーとの間で結んだ「日米修好通商条約」により、開港が定められました。幕府としては、なるべく外国人と日本人の接触を避けようと、当時栄えていた兵庫の村ではなく、寒村に過ぎなかった神戸に外国人居留地を作り、そこに外国人が多く住むようになったのです。居留地に隣接する町は「元町」と呼ばれ、ハイカラな商店街となり、貿易の仲立ちをする中国人が多く地域は住む中華街、通称、南京町と呼ばれるようになりました。今も、神戸のメインストリートになった元町通と中華街である南京町は共に賑わっています。外国人は、住居として見晴らしのよい山手(今の北野町界隈)に洋館を建てて住むようになり、その多くは異人館として今も残っています。

 1868年以降、明治政府は神戸港にいくつもの波止場を建設し、1896年には日本最初の欧州航路が開設され、西洋文明の受け皿になるとともに、外国の芸術や最新技術を学ぶ多くの若者が神戸から旅立ちました。1908年には、笠戸丸が第一回ブラジル移民を載せ、神戸港を出港して以来、ブラジル移民の拠点にもなりました。1900年前後には、川崎、三菱などの日本を代表する造船所が相次いで開業し、更に、製鉄会社や海運会社なども次々と開業して、国際貿易都市として発展を遂げたのです。

 現在も、かつての居留地辺りや海岸通りには、神戸商船ビルや商船三井ビル、オリエンタルホテルなど多くの石造りで、しゃれた佇まいの歴史的建築物が建ち並び、ヨーロッパの港町を思わせる雰囲気を漂わせています。
このように、古くから外国との繋がりが多く、ハイカラ、モダンと形容される「神戸」は形成され、繁栄してきたのです。

 私が、退職後神戸に戻った2000年より前の、1995年に起こった阪神淡路大震災で、神戸は甚大な被害を蒙りましたが、25年経った今は、震災があったことなど感じさせないほど、見事に復興を遂げました。大きなコンテナ船や内外のクルーズ観光船が盛んに出入りする昨今、神戸はやはり重要な港町であることを誇らしく実感しています。

 六甲山と海に挟まれた地形で、気候は温暖で、大都市でありながらコンパクトにまとまった神戸は便利で住みやすく、自宅の窓から見える、海、街、山の美しい眺めを見るにつけ、育ててくれた故郷神戸に感謝しつつ、楽しみながら日々を送っています。


(とくだ こうじ・1960年入社・神戸市在住)


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