新春企画

2020年01月01日 新春企画

クウェートの思い出

廣田 幸男 (1960年入社)

 入社3年目の1963年9月から1965年8月までの約2年の間クウェートに駐在したが、初めての海外生活で感じるところが非常に多かった。4月に結婚して9月に単身で赴任することには色々葛藤もあったが、結婚1週間後に単身で出発された先輩の話を聞き納得できた。
 以下想い出すままに書き記していく。

 当時日本の綿糸布輸出はピークを迎えており、クウェートを含む中近東諸国も一大市場であった。現地の環境は厳しかったが、やりがいがありあっという間の2年間であった。
 クウェート店はベイルート駐在の中近東支配人の管轄で、主管者はベイルート店の主管者が兼任されていた。駐在員は1名でパレスチナ人のセールスマン、クルド人の運転手とオフィスボーイ、社宅のインド人コック各1名の陣容であった。
 商売は日本品の輸入で、綿布、マグロの缶詰め、ジュースの缶詰め、建材の合板、建築用の小口径鋼管だった。マグロの缶詰めは主に砂漠に住むベドウィン向けとして予想以上に良く売れた。

A)指の無い手
 クウェートへの赴任は羽田より出発した。会社よりの相当量の書類を届けるために台北、香港、バンコック、カルカッタ、ニューデリー、カラチ、テヘラン、ベイルートの各店に立ち寄ったが、カルカッタで空港より事務所に向かうタクシーが交差点の信号で止まった時に開いている窓から指の無い手が顔の前ににゅっと入って来た時には、心臓が飛び出す程驚いた。物乞いだが病気で指を失ったのだろうか。
 また、カラチからテヘランまではプロペラ機で4時間以上要した気がするが、眼下は見渡す限り砂漠ばかりで緑は全く目に入らず、いよいよ中近東に入ったと強く感じた。

B)砂嵐
 クウェートの気候は高温で乾燥しており陽射しも非常に強く、朝7時前でも外へ出ると強烈な陽射しでサングラスをかけていても目が眩む程だった。12月、1月は朝晩の気温が下がり、確か霜が降りた朝もあったと記憶している。
 春先は砂嵐の季節で、遠方の砂漠から巻き上げられた粒子の細かい砂が静かに舞い降りる砂嵐は前日に特有の匂いがして、部屋の窓にはテープで目張りをしたが砂の侵入を防げず、テーブルの上は細かい砂で白くなってしまう。
 近くで起きる砂嵐は昼間でも陽射しを遮り町中も薄暗くなり車はライトを点けて走っていた。風もかなり強く車のフロントガラスに小さな傷がつく程だった。
 この砂嵐の後はうがいと洗髪を丁寧にしたのを覚えている。

C)クルド人
 店の運転手とオフィスボーイはクルド人で、二人だけの時はアラビア語と異なる言葉を話していた。これがクルド語ではなかったのかと思ったのは、例のイスラミック・ステートとの戦闘でクルド人が脚光を浴びる様になり、クルドに関する本を読んだ時であった。
 クルド民族の誕生は紀元前に遡り、現在はイラン・イラク・シリア・トルコにかけて3,000-4,000万人おると言われている。クルド語はあるがクルド文字は持っておらず、支配地が広すぎたためか有力な支配者が出ることが無く、今日に至るまで自分たちの国を持つに至っていない。さらに常に裏切られている民族ともいわれ、最近でもシリア紛争に絡み共闘していたアメリカにも裏切られた。

D)アザン
 社宅はクウェート人の住居地域の中にあり、近くにモスクがあった。早朝モスクから流される礼拝の開始を知らせるアザンの声が初めはうるさく気になったが、次第に慣れて来たのかスムーズに耳に入る様になり気持ちが落ち着くのを覚えた。
 電気とガスの供給は問題無かったが、水は上水道が整備されておらず屋根の上に設置されたタンクにポンプの付いたタンクローリーで押し上げていた。水は海水蒸留装置で淡水化された水で、量は十分にあったが水質は多少塩分が残っており煮沸消毒をして使った。値段はガソリンよりはるかに高かったと記憶している。なお街中の道路には大量の街路樹が植えてあったが海水蒸留装置からの水を惜しみ無く撒いていた。油田で燃やしている石油掘削時に出る随伴ガスを使うので装置の燃料費は安いはずだ。

E)アルコール
 当地では回教徒以外の外国人にはリカー・パーミットが与えられ、毎月十分な量のビール・ウィスキー・ブランディ等を購入できた。回教国駐在としては恵まれていた。
 出稼ぎに来ている回教徒以外のインド人等にもこの制度は適用され、一部インド人等はこの制度で買ったアルコールをクウェート人に売りさばいた。結果クウェート人のアルコールに依る交通事故等の犯罪が大幅に増え、ついに国王がこの制度を取りやめ元の禁酒制に戻ってしまった。ちょうど赴任から一年が過ぎていた。 
この制度取り止めの情報をある筋から早めに入手できたのでパーミット制が廃止になるまでの数か月間はパーミット上限いっぱいのアルコールを仕入れ在庫に回したので、2年目もアルコールは何とか不自由せずに済んだ。
 新鮮な野菜が食べられなかったのはつらかった。葉野菜はレバノンから冷房コンテイナー・トラックで運ばれてきたが途中での痛みがひどく、新鮮な美味しいサラダは中々手に入らなかった。シシカバーブは結構美味しく食べられた。海藻類を主に相当量の日本食を家族から送って貰い、また会社からは定期的に調味料を船便で送って貰い大いに助かった。
 年末到着便には日本酒が入っており、正月気分を味わえた。2年目の年末到着便にも日本酒が入っており税関から呼び出されて、これは何かとしつこく聞かれたが、最後まで料理に使う酢だと言い通して許可を貰った。どうも酒とわかっていて目をつぶってくれたらしい。

F)ゴルフ場
 金曜日が休日だが暑いので外出は限られた。たまに数人の他社駐在員と海岸へ行き、海水で温められた潮だまりを見つけて「クウェート温泉」と呼んで海水浴をした。できるだけ人目に付かない様に気を使った。ゴルフ愛好家は砂漠に自動車のエンジンオイルの古いのを使ってフェアウェイとラフの境界線を作り、同じく自動車のシャフトを切って砂に埋めてホールとしてプレイを楽しんでいた。ボールがホールインしたので指を入れたら中にいたサソリに刺されたとの嘘のような本当の話も聞いた。このゴルフ場は一旦砂嵐が来るときれいに元の砂漠に戻ってしまうとのことだった。
 一方、郊外の英系石油会社のフェンスで囲まれた広々とした住宅地の中では緑の芝生の上でゴルフを楽しんでいる英国人をよく見かけたが、英系石油資本の力をみせつけられた。


筆者近影

G)カフジ鉱業所
 現在は既に無いが、アラビア石油は当時クウェートへ進出していた日本企業では一番の陣容だった。クウェートの町から西へ約100㎞のサウディアラビアとの中立地帯にアラビア石油カフジ鉱業所がありその沖合で石油を掘削していた。カフジ鉱業所へも年に数回挨拶に出かけていたが、エアコンが整備されていない車で熱風を防ぐために窓は閉めたままで1時間以上走らねばならず非常にきつかったのが忘れられない。
 普通はすこしでも暑さを避けるため早朝に出発するが、その日は昼頃の出発で帰りが夕方になった。帰途、遠方に高速道路の道端でベドウィンの祖父と孫息子と思われる2人が、広げたござの上でメッカの方角を向いてお祈りをしているのが見えた。夕方の祈りの時間で、今日1日の安寧を神に感謝していたのだろう。そばには乗って来たロバにひかれた車が止まっていた。僅か10-15秒で後ろに過ぎ去ってしまった風景だが、一瞬暑さも忘れ何とも言えない爽やかさを感じた。後に回教徒を名乗るイスラミック・ステートの暴虐行為を聞く度に、このカフジ街道での敬虔な回教徒の祈りの風景を思い出した。

(ひろた ゆきお・1960年入社・大阪府在住)


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