新春企画

2017年01月01日 新春企画

東京の戦後復興と今72歳の私

森 利彦 (1968年入社)

(もり としひこ・1968年入社・東京都世田谷区在住)


筆者近影

 72歳。つまり、戦後72年。今の自分自身を考える時、終戦間際の両親(既に二人とも他界)の鮮烈な体験のことを思い出さずにはいられない。私は、昭和20年2月28日に目黒区宮前町(今の目黒区八雲、駒沢公園の近く)で生まれた。父の仕事の関係で、家族は戦時中、疎開もせず東京にいた。生後10日目の3月10日に東京大空襲に遭い、母は3歳の兄と生後10日の私を抱えて父と逃げ回り、近くの防空壕に入ろうとしたが既にいっぱいで、父が他に行こうと言い、そこを出て別の所に入り込んだ直後に、さっきの防空壕が被弾し、全員が死亡したという話を、のちに聞いた。また、目黒通りから下町方面を見ると、空がまるで焼け爛れたように真赤に染っていたそうで、「あの空は忘れられない、良く生きていた。お父さんの一言が無ければ私達も死んでいただろう、戦争はしてはいけない。」と、私の誕生日になると当時を思い出すのだろう、生前の母はよく言っていた。また、当時、巡回中のお巡りさんに缶詰を分けてあげたら大変喜んでくれて、何か困っている事はないかと聞かれたので、母はお米が不足して困っていると言ったらしい。すると、後日お米を持って来てくれて、その後も時々都合してくれたらしく、「あれで命がつながった。あのお巡りさんは命の恩人だった。」と何度も言っていた。

 3歳の時、田端に引っ越した。上野に近かったので、時々歩いて上野公園に行ったが、公園内には多くの傷痍軍人がいた。全身白い衣装で手や足の無い人や、顔を包帯で覆っていた人など、私は怖かったし、また気持ち悪くもなってしまったが、母が色々と説明してくれたのか、幼いながらも自分なりに理解できたのか、しばらく経つと余り気にならなくなった。私の曽祖父は、明治の陸軍軍人で、西南戦争、日清戦争、日露戦争を戦い抜いてきた人だったので、命を懸けて戦った人々に対して、何らかの共感を覚えたのかも知れない。
 終戦後、焦土と化した東京の復興は、力強くダイナミックだった。象徴的なのが、昭和33年12月に完成した東京タワー。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観ていて、当時の東京の風景を懐かしく思い出した。ちょうどその年、中学2年の夏休みに貧血が酷くなって、御茶ノ水の順天堂大学病院に2週間ほど入院した。することもなく、当時は高層ビルもなかったので、屋上から東京タワーの4本の脚の建設工事を見ていたが、日に日に高くなって行く様子に、生命の息吹のようなものを感じて感動したことを覚えている。
 確か、同じ年の11月、午後の体育の時間で校庭にいた時、突然大きな声で「号外!、号外!」と叫びながら校庭内に入って来た人がいて、号外を配り始めた。それは、「皇太子ご婚約」を知らせるもので、体育授業のクラスだけでなく、学校中が大騒ぎとなった。翌年4月10日の皇太子のご成婚は、おそらく戦後最も明るいニュースのひとつではなかったかと思う。
 昭和39年の東京オリンピックは、日本中に自信と明るい未来への希望を齎し、大変な盛り上がりを見せた。この時私は大学1年で、開会式の入場券を持っていながら体調不良で行くことが出来ず、友人に上げてしまった。入手困難の貴重な切符だっただけに、今でも残念に思う。ただ、それ以上に私には、オリンピック開催までの突貫工事の方が強烈に印象に残っている。皇居外堀の埋め立て、ビルの合間を縫った首都高速道路の建設工事。私の記憶では、渋谷-六本木間のかなりの部分は、元々青山学院大学の敷地であった。日本橋の上に架かる無粋な高速道路と環状7号線の建設。その昔は、青山練兵場だった国立競技場の建設、古くは、東京ゴルフ倶楽部というゴルフ場があった駒沢オリンピック公園と旧東映フライヤーズの本拠地でもあった駒澤球場。この球場、当時は警備も緩やかで、何度もこっそりとタダで入った。そして、代々木にあった米軍家族住宅のワシントンハイツの解体とオリンピック選手村の建設など、昼夜を通しての大突貫工事で、大型ダンプがこまネズミの如く走り、東京は埃ですっぽり覆い尽くされていた。
 オリンピックの後も、昭和40年頃には新宿駅西口の淀橋浄水場が解体され、巨大高層ビル群に変貌を遂げたほか、環状8号線の整備、昭和43年の霞が関ビルの建設、都営荒川線を除く都電の廃止等々。そして、2012年の東京スカイツリー完成に至るまで、この紙面では書き尽くせない程の工事があちらこちらでなされて来た。
 東京の地下に潜ると、これまた凄い。私が知る限り、終戦直後にあった地下鉄は銀座線のみであった。その後、丸ノ内線、浅草線、三田線、日比谷線、千代田線等々と続き、東京の地下はモグラの通り道の如く増えて、現在は都営4路線を含め、13路線となる。これだけ複雑であれば、外国人にはさぞかし分かり難いと思われる。実は、この地下鉄の一部が旧陸海軍の地下壕であったことを皆さんはご存知だろうか。
 2020年の東京オリンピックに向け、東京の大改革が再び始まっているが、次世代にどの様なレガシーを残してくれるのだろうかと、楽しみと不安が交錯している。いずれにせよ、素晴らしい環境になって貰いたいと願っている。


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