新春企画

2016年01月01日 新春企画

忠兵衛さんと炭坑節

副島 勲 (1956年入社)

当時の伊藤忠兵衛氏

 私は今年7度目の年男を迎えたが、本稿は、まだやっと2度目の年男を迎えて間もない、若かりし頃の思い出の記である。
 入社して1年ほど経ったある朝、所属する海外統括部、桧山広部長(当時)から、直ぐ社長室へ行くようにと指示された。用件も分からず、恐る恐る伺うと宮崎彦一朗会長(当時神戸商工会議所会頭)と市川忍社長が待っておられ、その前に緊張して座った。市川社長からの第一声は、「君、健康は大丈夫か」であった。続いてにこやかに「君を伊藤忠兵衛さんの秘書にすることにした。引き受けてくれるか」と問われた。


豪州・ニュージーランド経済使節団結団式の模様(左側中央が伊藤忠兵衛団長・同列一番奥が筆者)

寝耳に水の話だったので、とっさに「入社早々の身で、そんな偉い方の秘書は務まりません。」と答えると、「忠兵衛さんは手元に若い社員を置いて鍛え育てると言っておられる。少々の失敗はあって当然だろう。」と言われ、なお逡巡する私に、宮崎会長が横から「忠兵衛さんの元では人生の機微を学ぶ絶好の機会だよ。他では得られない貴重な経験になる。」と勧められ、もうこれ以上の抵抗は無理と、辞令を受け取って引き下がった。
 当時、忠兵衛さん※は財閥解体前の大建産業の総帥として、通称「御当主」と呼ばれる存在で、事務所も日比谷・日活国際会館内の「伊藤忠兵衛事務所」のほか、東京・大阪に会長・相談役を兼務する各社の事務所があった。政府関連の公職のほか財界の教養人(全国俳句選で第一位)として、国語審議会の委員も務められるなど、学者・文化人との交友も多かった。
 忠兵衛さん付きの秘書は1名のみで、日程作り、会議・宴会への同席、来客対応、通信事務・記録作りから国内・外の出張への同行まで、休日無しの目の回る忙しさだった。「君、健康は大丈夫か」という市川社長の言葉の意味がわかる日々であった。


その折に発給された公用(Diplomat)旅券の一頁

 その後、会社と忠兵衛さんの約束の1年が過ぎても返してもらえず、延ばし延ばしで3年半勤めることになるが、その間の思い出は数限りなく多い。
 その中のひとつに当時の岸信介首相からの任命で、忠兵衛さんが、「豪州・ニュージーランド経済使節団」の団長として豪州訪問の際、団長秘書として随行した時のことがある。
 首都キャンベラでメンジス首相への表敬訪問を済ませ、夜、マッキュアン貿易大臣はじめ各局長らが出席しての歓迎夕食会でのこと。
 型通り「To the Emperor…, To the Queen…」の乾杯を終えて歓談が進む中、何かもうひとつしっくりしない雰囲気が漂っているのを団員たちは感じていた。


同使節団団員としての筆者に対する、
岸信介外務大臣臨時代理・内閣総理大臣名の「外務調査員」任命書

 当時すでに終戦後10年以上過ぎていたとは言え、戦時中に多くの戦死者を出し、各地の捕虜収容所で苦い経験を持つ者も多い豪州では対日感情の改善が進まず、道を歩く日本人に生卵やトマトなどを投げつけるケースが止まないと、現地大使館での事前説明を受けていた。
 日豪貿易面で言うと、1957年7月の通商協定成立後、日本としては羊毛・砂糖など、輸入が増えていることから、豪州Snowy Mountain 水力発電プロジェクト等への発電設備の輸出、家電品への高関税率の是正等を要求していた。一方、豪州政府からは安価、良質の燃料炭や食肉について、日本側の輸入制限措置の撤廃を要求しており、双方の主張にはかなりの隔たりがあった。

 宴も進み、このままではおざなりの夕食会で終わってしまうと懸念しているとき、忠兵衛さんが立ち上がり、日本の炭鉱産業の伝統と現状を話されたのに続き、これから一同で炭鉱労働者をはじめ、多くの日本国民から愛されている「炭坑節」を踊りますと結ばれた。否応なしに団員は立ち上がり、見様見真似でテーブルの周りを歌い、且つ踊りながらぐるぐると回ることになったが、お世辞にも上手い踊りとは言えず、終わると皆苦笑しつつ席に戻った。
 ところがその途端、今まで謹厳実直の姿勢だったマッキュアン貿易相が立ち上がり、「歌の意味が良く分かった」と言い、「お礼にこちらから皆でアボリジニ(原住民)の踊りをご披露する」と先方全員が立ち上がり、アメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカン)の踊りにも似た形で、歌いつつ食卓の周りを舞い始めた。終わりは双方交っての思い思いの歌と踊りとなり、その後は心の通った有意義な夕食会となった。


最近の社友会総会で、
國分社長と談笑する筆者

 後で忠兵衛さんに、「突然で皆困っていましたよ」と言うと、「突然だからやらざるを得なかったろう。それにしても炭坑節の一つも満足に踊れないとはなあ…」と愉快そうだった。
 英国留学中若くして父を亡くし、二代目忠兵衛を襲名し、戦前・戦後、倒産寸前の辛苦を味わいつつも丸紅グループを守り、呉羽紡績(合併後今の東洋紡績)・伊藤忠商事を設立し、我が国の経済発展に貢献した忠兵衛さんの国際感覚の一面を見た思いだった。

※筆者註:当時ご本人より秘書は”忠兵衛さん“と呼ぶように言われていた。


(そえじま いさお・1956年入社・東京都在住)


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