新春企画

2017年01月01日 新春企画

ふるさと 神戸

山内 啓正 (1956年入社)

数年前の水彩画グループ展にて

 いつの間にやら84歳になってしまった。「この機会に何か一筆を」とのご依頼を受けたので、少し昔を振り返ってみたい。

 「君の出身は何処か?」と聞かれると、「はい、神戸です。」と答えているが、実際 神戸にいたのは、幼・小・中・高のほんの14年ばかり。その後の東京生活の方が遥かに長くなってしまった。しかし、最近の10年など、あっという間に過ぎてしまうが、殆ど物心もつかぬ幼小期から半分大人の高校迄の14年間は実に長かった。思い出も山ほどある。今でも神戸と聞くと、あの頃を思い出し、何となく胸にじんと来るものがある。

 先ずは、あの戦争。小2から小6まで続いた。間近に焼夷弾が落ちて来た。幸い我が家は焼失を免れたが、近隣の街は全て焼け野が原になった。集団疎開も経験した。軍国主義教育も受けた。そして終戦。今度は一転して「民主主義」。教科書を墨で塗りつぶす日が何日も続いた。しかし、今思えば、あの頃の占領政策は日本人の頭を洗脳するに、まことに効果的なものであったと想う。何故なら、戦後70年を経た今、いまだにあの当時の影響を受けたままの人々が数多くいる。

 そして、旧制中学最後の学年を経て、高校へ。驚いたのは、男女共学。何しろ、「男女七歳にして席を同じゅうせず」で、小3より男女は別々。それが半分色気づいた高校生になって、突然、女子と机を並べるというのは、何とも奇妙な感じ…。どうも気が散って勉強に身が入らなかった。それでも、何とか東京の大学に滑り込み、東京へ移って、これが神戸での生活のおしまいとなった。


氷川丸の前で

 忘れられないのは、22年前のあの阪神大震災。数日後に神戸を訪れる機会があったが、目の前に見たあの大惨状。我がふるさとは立ち直ることが出来るのであろうか?思わず涙がこぼれた。でも、今は美しい昔の街並みを回復している。

 もうひとつ、神戸と云えば、あの六甲山の山々。神戸は六甲山系の山々が海に迫り、山と海に挟まれ東西に帯のように長い街である。従って街の何処からでも少し北に向いて歩けば、六甲山系の何処かの山に突き当たる。西の須磨から東の宝塚まで約55キロ。この六甲全山の縦走をやる会が毎年開催され、何千人もの人が参加しているらしい。めっちゃ速い人なら6-7時間という人もいると聞くが、普通の人は大体12時間位は掛かる。小さい山が幾つもあり、登ったり降りたり、登りの合計はちょっとした3千米級の山に匹敵して、かなりきつい。私はまだ一日で走破したことは無いが、2回か3回に分けて同じ山をほんとに何度も登った。

 その後、東京へ移ってからは、もう少し高い山に行きたくなり、随分あちこち登って、すっかり山のとりこになってしまったが、きっかけは六甲の山である。

 現役を卒業したら、神戸に帰って、美しい夜景の見える小高い丘の上に住みたいものだと思っていたが、今では東京に根が生えてしまい、身動きが出来ない。やはり、「ふるさとは遠きにありて想うもの」なのだろうか?


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