新春企画

2015年01月01日 新春企画

夫婦で155歳のオリンピックを

中山 芳博 (1966年入社)

筆者近影

<初硯 父が遺愛の へこみかな>
 平成27年。私は年男-72歳です。
 父は、この歳に突然大阪の家を引き払い、千葉の我が家に参りました。「随分とヨボヨボの老人になったなあ」と思ったものです。「流山とは、変な地名だね」と言い乍ら、毎日自転車であちこち出かけておりました。関宿や我孫子、手賀沼等利根川沿い、坂川沿いの柏や醤油の野田。戸定邸の松戸や矢切の渡しの江戸川沿いを訪れていました。


<素朴良し 古稀の想いや 初日の出>
 酒をこよなく愛した父は、河畔でのカップ酒を存分に楽しみ、帰ると本を読んでおりました。まさに晴輪雨読の日々でした。最近、御近所様から「お爺さんにそっくりになって来ましたね」と言われだしたのです。「もっと若々しく、元気」と思っていますのにと何となく心外と言う気分です。人様の眼の方が正しいと女房は笑っております。


1988年8月全日本実業団ホッケー選手権大会にて(写真中央が筆者)

<濡れてから 腹立ててをり 初時雨>
 50年前、私は大阪、繊維部門を希望して丸紅に入社。配属は東京の鉄鋼部門でした。以来、自動車鋼板中心に商い、40年近くを転勤も出向もなく東京で過ごしました。「生きた化石」と異名をつけられていました。
 高校、大学で陸上ホッケー選手でしたので、入社3年目に相互会陸上ホッケー部を先輩達と一緒に作らせて戴き、以来国体や全日本大会に出場し、63歳迄プレーをしておりました。全日本実業団で58歳で得点したのが自慢です。今も丸紅ホッケー部は健在です。


<悠々に あらねど自適 炉を開く>
 会社生活を終え、あれもこれも等と思っておりましたが、いざその時になると「何もしないでいる事」を喜ぶ自分がおりました。平均寿命が85歳を超える今、余生をどう生きるかは、大切な事だと思います。


<復興とは 何かを問うて 月皓皓>
 3.11の地震は大きな衝撃でした。釜石製鉄所・鹿島製鉄所があった地域が大きな被害を受けました。即、釜石に慰問に出かけました。トラックで新潟から秋田、青森を経て南下したのです。昨年も4回ボランティアで訪問。ごみ山の仕分け作業が得意業となりました。また妹が福島県の新白河に住んでおりますので、福島原発の事故も衝撃でした。我が流山も線量が下がらず、監視地域となり、何と妹の所よりも放射線量が高く、一時、僕の所へ避難を打診してきた妹に、撤回されてしまいました。目に見えないものへの恐怖をこれ程感じた事は、今までありませんでした。
<池さらい 泥は原子禍 隔離さる>


<過去を捨て 軽くおかしき 古暦>
 今、私は色々な事に手を染めて、何かを捜しています。それが何なのかは解りませんが、苦しむ事は嫌いです。これからも想像もつかない変化、天変地異が起こることでしょう。
 そして「清潔で汚れのない世界」「戦争のない世界」が空想だけのものと知っています。人生にも四季があり、希望や未来性があります。だからこれからも一生懸命に「何かを」求めて、ゆっくりと歩んでいこうと思っています。
<ちまき解く 心の紐は 解けぬまま>


<元旦や 発心新た 万歩計>
 ただ一つ「これだけは・・・」と心に誓っている事があります。「2020年の東京オリンピックのホッケーの試合を夫婦で観る」という事です。前の東京オリンピックは、各国のホッケー選手団の世話役掛でした。試合はついに観る事が出来ませんでしたので・・・。
 出来たら開会式もと、今から楽しみにしております。


(なかやま よしひろ・1966年入社・千葉県流山市在住)


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