新年を迎え、会員の皆様のご健勝を祈り上げます。
私は7回目の干支を迎え、84歳になりました。年頭にあたり、来し方を振り返ってみたいと思います。
小学校5年生だったと思いますが、父がバセドー氏病にやられて、九州の別府で開業しておられた高名な先生の手術を受けるようにかかりつけの医師から紹介状をいただき、父は約3ヶ月間、別府の病院に入院してバセドーの手術、治療に専念しました。父の手術は名医の手に掛かったものだけに良好だったのですが、小生は中学校進学の後、更に上級学校へ進みたかったところを3年間で卒業できる国立の京都繊維専門学校(旧京都高等蚕糸専門学校)に入学するべく方向転換をしました。
戦争で産業生産手段の大部分を失ってしまった日本は、伝統的な繊維加工貿易で外貨を稼ぐのが一番手っ取り早い手段だったのですが、既存の専門学校教育に飽き足らず、更に巾広い教育を受ける為、専門学校を中退して高校・大学へ進むべく進学の方向を再転換しました。
筆者近影
当時、英国や米国でナイロンやポリエステルが品質的に巾広く開発されてきて、小生の所属していた綿花部も綿花だけでなく、綿花と化合繊維との混紡、緄織を模索し始め、東レ、帝人等、今までとフィールドの異なった方達との交流を着実に深めていきました。
一方、次代の主たる取引先や職場はいわゆる新興国と言われた香港、台湾、韓国、インドネシア等の東南アジア諸国を狙って米国産綿花を軸に、これらの地域との多角的な三国間貿易を拡大していきました。
根拠地にしていたテキサス州ギャルベストン市は過去にハリケーンの直撃を受け、市の大半が水没する大惨事に遭い、その後、高さ約8mの頑丈な防波堤を構えておりました。また、当時のギャルベストン市にはテキサス大学医学部があり(現在はヒューストンに移転しております)、米国フルブライト基金を活用して多くの日本の医学徒が学んでおられました。
後に京大の総長になられた岡本先生は磊落なリーダーでした。その方々と寮歌を歌いながら南国の月光を浴びてメキシコ湾岸をそぞろ歩きしたものですが、あれからもう早50年、年と共に思い出も薄れつつあります。その岡本先生も残念ながら他界され、小生は1年半程前に冠動脈に不具合をきたし、西ノ宮の渡辺病院心臓血管センターにて入院手術を受け、いまやあまり無理が出来なくなってしまいました。
(みよし せいいち・1960年入社・兵庫県芦屋市在住)