新春企画

2014年01月01日 新春企画

七度目の干支を迎えて

細井 和男  (1954年入社)

筆者近影

 2014年甲午が明け七度目の干支が廻って来た。干支を迎えての抱負はと問われても、これまで年男を意識して行動したことは無いし、幾つかの病を経験し八十路も半ばに達すると、今年こそはと新たな目標に挑戦する気概も湧かない。残念ながらお正月は、私に取っては新たな挑戦への始点と言うよりは、しがらみの幾つかを解き放ち戦線を縮小する区切り点になってしまっている。
 そうかと言って怠け者の私には、ここにご披露出来るほどの研究や趣味と言ったものも無い。取り上げられるものが若し有るとするならば、それは、商売の絡まない幾つかの国際交流の分野に可なり長い期間携わったと言う、他の方とは若干異なる経歴くらいなのかも知れない。
 顧みれば、戦後間もない、私がまだ学生時代の昔、接収されGHQのCivilianの宿舎になっていた横浜の互楽荘アパートでCQ(Charge of Quarters = 米軍宿舎の夜間・休祭日の管理人)として4年近くアルバイトをしたことが、その始まりである。


 予科一年時の担任が横浜三中先輩の岩田一男教授で、その薫陶宜しきを得ること一年、片言の英会話は出来るようになっていたとしても、米軍の会話試験をよくぞパスしたものだと思う。異国文化を目の当たりにしたここでの経験が、何をおいても一度は海外へと言う私のその後の進路を決めたと言っても良い。


 1954年甲午に入社し、最初の31年間は輸出入関連の営業部と海外店を行き来して勤務したが、退職前の五年間は当時の松尾泰一郎会長が主催されておられた英国市場協議会に出向し、英国からの輸入促進業務に携わった。その間何回か会長のお供をして、さながらCaravanの様に英主要都市を巡回して、日本市場進出の手掛かりを英企業に紹介するセミナーを開催したが、その時の巡業は今も楽しい思い出の一つになっている。


 1990年庚午に定年退職したが、偶々海外校と教員・学生交換を開始するに当たり国際交流の経験者を募っていた都内の大学に、横滑りで職を得た。在職八年半の間に海外10数校と学術交換協定を結ぶことが出来て、協定書、学内案内書、宿舎規則書などの作成から、派遣留学生への助言、受入れ教員や学生の生活指導とお世話に至る広範囲の仕事に関わった。派遣留学生の多くは、その後更に協定校の大学院コースなどに自費留学するなどして、今も多岐のグローバルな分野で活躍している。
また、一部の受入れ交換教員の方々は後に何回か個人的に来日されたが、その折には食事を共にしたり名所旧跡に案内したりして、旧交を温めた。お齢を召されたり体調を毀されたりして、そうした来訪も暫く前に途絶えてしまったが、時の流れは止める術もない。


 貧者の一灯ではあるが、色々な分野の国際親善に少しはお役に立てたのではないかと思う。


(ほそい かずお・1954年入社・埼玉県飯能市在住)


バックナンバー