社友のお便り

2020年04月08日 社友のお便り

アルゼンチン ロカ線電化プロジェクト

赤田 堅 (1960年入社)

 現役時代の最も印象に残る案件として本件を取り上げました。本年1月の社誌に本件で苦楽を共にした米須さん(本文3および社誌切り抜き参照)の叙勲の記事が出ておりました。これも今回本件を取り上げたきっかけです。

1. 成約までの長い道のり:

1)    丸紅が本格的に本件に取り組み始めたのが1961年。契約調印が71年。発効は更に10年後の1981年。既に20年の歳月を経た上で、漸く工事着手の運びとなりました。(南米初の交流電化)。この間、78年にア国国家予算の関係で、計画が2期に分割され(第1期45km、第2期85㎞)、79年に第1期分調印、81年に発効の運びとなりました。

2)    体制:本件は日亜両国共に国家プロジェクトと位置付け、その基本契約は、当時の鳩山首相と桧山社長の間で調印され、国鉄、輸銀の全面的バックアップを得て官民一体となっての体制でスタート。71年7月16日、日米英仏の4ケ国に照会がなされ、最後は日英の一騎打ちとなりました。元々ア国の鉄道は英国が始めたこともあり、英国としては絶対に譲れない一戦でした。(最終的に日本が落札した日、駐ア英国大使が更迭されたほど、熾烈な競争でした)。日本は丸紅をヘッドに、東芝・日立・三菱電機の4社が主契約者となり、ア国も伊のフィアット現地法人を頭に、陸軍工廠、デサッシ、サデ等が参画し、両国共に鉄道業界挙げての体制を作りました。

3)    入札(4ヶ国照会)から落札までの3か月間:我々作業部隊は日亜とも徹夜体制でした。日亜は12時間の時差があり、日本の昼は、ア国の夜。連日朝5時まで仕事をし、一旦タクシーで帰宅するまでの時間だけが唯一の睡眠時間でした。自宅で着替えと朝食を済ませ、満員電車に揺られ、朝8時半には出勤と言う毎日が続きました。無事落札したとはいえ、発効までは更に10年を要しました。

4)    ウルキサ契約発効とア国への赴任:ロカ契約の発効はなお日時を要しましたが並行して交渉していたウルキサ線の契約が発効したことに伴い73年4月にア国に赴任しました。この案件は日本からの車両輸出92両、国産36両および変電設備の近代化を含みロカ線計画の前哨戦となる案件でした。(ロカは日本製車両120両、国産36両)。

5)    帰国:ウルキサ契約は無事完了しましたが、肝心のロカがア国国家予算とのからみで発効までなお時間を要する見通しとなり、一方ベネズエラでの案件(電話交換機システムの近代化)が急を要するということで80年2月、7年間の駐在を終え一旦帰国しました。この契約交渉の2年間ほとんどベネズエラに張り付きました。

6)    再赴任:ベネズエラ案件は無事成約できました。一方ロカも81年12月に発効、これに伴い82年4月、再赴任(単身)、ロカ線工事事務所に勤務することとなりました。

7)    ロカ契約の遂行:ロカ工事事務所は本社員7名(うち1名は財経本部)、現地の日系技術者95名、計100名の体制でスタートしました。日本からは、国鉄20名、業界各社から70名、丸紅からも常に1-2名の応援出張があり、総勢200名、さらにアルゼンチングループ(以下AG)が技術者、作業員合わせて、1,000名の大世帯でした。

2.工事遂行上の問題点:

1)    障害物。ロカ線の終着駅は都心の中心部にあり、沿線の地中には上下水道、都市ガス、また上空にも電話線、配電線等が入り乱れており、これらは国鉄とは別の組織に属し(一部は私有地)、その変更、撤去作業は、個別に交渉を要しました。

2)    部門間のインターフェイス:鉄道工事は8つの部門に大別できます。このうち変・配電、通信、信号、電車線、軌道の6部門は現場が重なり、この部門間の調整も大きな問題でした。

3)    習慣の違い:ア国は契約社会。全ての約束事、決定事項は都度文章で確認します。一方、日本はアウンの呼吸で工事を進めます。このギャップが大きい。最初の1年はギクシャクしましたが途中からは両者の信頼関係も深まり、日本方式でAGも信頼してくれるようになりました。

4)    チームワーク:大きくは日本グループ(以下JG)対AGおよび各グループ内の部門間の対立。これを調整するのが重要テーマ。本社もこの点は、良く理解してくれ、都心の一等地パレルモ公園内のマンション(600平米のワンフロアー)を事務所長社宅として認め、全面バックアップ。寝室以外の全てをJG/AGに開放。カラオケ・碁・麻雀・バー等を設け、カラオケを共に歌い、酒を酌み交わすことで両者の壁は無くなり、工事後半は、ツーカーで仕事が捗ることとなりました。JGの派遣員はほとんどが単身赴任で毎晩、また週末には部門別にJG/AGの幹部を招き、カラオケと日本料理でもてなしました。費用は毎晩のこと故とJG申し出により、JGは個人負担の割り勘(幸い、円高・ペソ安で大きな負担にはならなかった)、AGは招待。鉄道の仕事は、日本でも線の仕事で例えば新幹線を敷設するとき一週間毎に本拠地を移動します。従い各地の民謡を習得、また自炊のため、料理は得意中の得意、日本でも「女房は台所に入れない」と豪語する人、包丁も日本から5本も持参した人(例えば刺身でも身の硬いタイと柔らかいマグロでは包丁を使い分け)、箒の柄を麺棒代わりにうどんを打ってくれる人、買い物上手、中には皿洗いがフラストレーション解消の一番の薬と言う人、皆さんの協力により楽しく4年間を過ごしました。

3.日系二世の協力:

日系二世の活躍ぶりは、現地取材の上、日経・産経が写真入り朝刊で大きく取り上げ、また日本テレビも1時間番組で放映してくれました。彼らは通訳としてあるいはエンジニアーとして、JG/AGの間を良く取りまとめてくれました。今回叙勲された米須さん他4名の二世の方々がリーダーとなり、100名近くのグループをよく纏めてくれました。

4.夜間の作業:

今回の仕事は営業運転を止めることなく実施しました。従い夜間の運転間隔が空く時間帯は各分野の現場の取り合いとなります。しかし、これも森(全体工程)を見て、枝(各分野の言い分)を捨て、JG/AGともに協力してくれました。夜間の作業は当然エネルギーが必要。我々丸紅からの駐在員は全員おにぎり作りに専念。一方、最初は信じられないと傍観していたAG幹部も、ロビンフッドよろしくアサード(焼肉、写真参照)を始め、JGにもふるまってくれるまでになりました。全て、カラオケと日本料理のおかげとJG/AGともに納得の夜間作業でした(日経、産経、日本テレビ共にこの辺りも取り上げてくれました)。

5.運動会と牛一頭のアサード:

チームつくりの一環として、家族全員参加の運動会とサッカー大会を催しました。日本からの技術者にも家族帯同の方が何人か居られ、日系二世、AGの家族も招待、パン食い競争はAGの家族にも大人気でした。牛一頭のアサードはAGの人達も滅多に経験できないことで喜ばれました。専門のガウチョ(牧童、写真参照)に依頼して、24時間かけて焼きます。アサードは先ず炭を灰にして、この灰でじっくり焼きます(写真参照)。内臓も全て食べます。チョリーソ、モジェハ、チンチュリン等々懐かしい名前です。

6.支払い遅延:

当時ア国はスーパーインフレ。今回の工事は円建てで出来高払い、毎月の仕事量に応じて支払いがなされる契約でした。それまでも国からの支払いは遅れがちでしたが、あと5%という最終段階で、IMFからも見放され、いよいよ国家財政が行き詰まりました。AGも当然、国の財政状況は良く認識していましたが、「我々の契約相手は丸紅。国の支払いは丸紅の問題。国からの入金に関係なく我々には支払え」とまさに四面楚歌。大蔵大臣とは都合9回、1対1の膝つき談判(財政状況は国家の機密事項。大臣は1対1でないと会わない)、幸い工事はその時点で95%が完了しており、あと一歩のところ。残りの5%の為にプロジェクト全てを無駄にすることは無いでしょうと粘りの交渉。漸く最後の支払い許可を大臣から獲得。超インフレの中、AGも良く耐えてくれたと思います。国家財政の破綻が、ほとんどの工事が最終段階でなかったなら、大臣もOKは出せなかった。この点が本工事の最大のツキでした。なお余談ながら大臣のスケジュールは全て秘書が握っています。秘書および秘書の母親の誕生日には花とチョコレートを4年間贈り続けました。終日大臣と会うためにだけ、何時間も待合室でただ待ち続け。待合室は陳情者で超満員。9回の面談のほとんどが早朝(7時過ぎ)あるいは夜の10時以降でした。

7.開所式:

四半世紀を要したこのプロジェクトも人的事故皆無で無事工期内に完成。1985年11月6日、アルフォンシン大統領がテープカット。式典の前々日、駐ア日本大使にご同行頂き、JGの主契約者4社および国鉄とJG代表の6名が大統領を表敬訪問(当社代表は中山副社長)。また前日にはア国鉄総裁と官邸に呼ばれ、式典の詳細打ち合わせ、大統領のスケジュールは一切口外無用。当時はテロが横行。大統領はテロリストの最大の標的でした。

8.中南米25年:

駐在4回、3か国18年、中長期出張含め四半世紀。貴重な経験をさせていただきました。感謝。
以上若かりし頃の最も印象深い案件の一端を思い起こしてみました。紙面の関係上、これでも書ききれないエピソード、何よりも本件に尽くされた方々のお名前を書き得なかったことお許し願います。最近は趣味三昧の生活を楽しんでいます。

(あかだ たけし・1960年入社・兵庫県在住)



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