社友のお便り

2015年10月01日 社友のお便り

わが来し方の記

山下 好雄 (1949年入社)

1949年当時の本社事務所

 本稿は、わが母校三豊中学校(現香川県立観音寺第一高校)の創立100周年に当たる2001年に、同校同窓会誌「巨鼇(きょごう)」向けに投稿した、私の半生記の中から丸紅勤務時代の話題を中心に抜粋の上、一部修正の筆を入れたものである。

 大学時代から外国貿易や国際経済に関心のあった私は、就職先として、当時貿易部門の拡大を期して人材を求めていた丸紅を受験、昭和24年4月に入社して、神戸支店に配属された。先ず繊維製品の輸出営業を担当することになり、アジア、アフリカ、中近東の客先を中心に、引き合いの手紙を書いたり、電報を打ったりしながら、貿易実務のいろはを覚えていった。そんな生活を2年ほど続けた後、大阪本社の繊維原料部に異動となり、世界各地の原産国から綿花を輸入する仕事に就いた。綿花輸入はダイナミックで大変面白く、熱心に仕事を続けた。それから3年後の昭和29年4月、綿花輸出国のひとつであるメキシコ駐在を命じられ、先輩社員2人とともに羽田から28時間掛けて、米国ロサンゼルスに着いた。米国では各地の綿作地や綿花商を訪問、様々な情報を集めながら、メキシコ入国のビザが取れるのを待った。当時は日本の外貨事情から、海外派遣員に対する外貨割り当ても極めて厳しく、家族を残しての単身赴任生活は3年半も続いた。余談となるが、久しぶりの家族との再会に胸を躍らせながらロサンゼルス空港に出迎えに行ったところ、その飛行機に家族は乗っていなかった。長男が渡航の機中で発熱しハワイで入院させられていたのだ。空港でそれを聞いた時には、本当にがっかりした。

 それはさておき、メキシコでの私達の任務は、綿花買い付けのための現地法人を設立し、営業を軌道に乗せることだった。スペイン語しか通じない国で事務所を設営し会社を立ち上げることは、予想以上に大変な仕事だった。当時の日本の外貨事情や異文化の下での綿花の青田買い、農民との交渉など、手探りの営業が続いた。綿花収穫期になれば綿作地の現場事務所を拠点として、早朝から夜遅くまで綿埃を吸いながら、畑からの摘綿、繰綿工場の運転状況監督、綿花の見本摘出と検品仕分けなどを経て、綿俵をトラックで港に輸送、日本向けの船積みを終え航海の無事を祈って船を見送る。ここまでの一連の作業で1シーズンが終わるが、それは実にやりがいのある仕事だった。

 昭和39年秋、10年余りのメキシコ駐在を終え、オリンピック直後の東京に戻った。東京では繊維機械の輸出入や自動車輸出の仕事に携わり、その後、昭和42年、今度は南米ペルー駐在を命じられた。

 ペルー赴任後、間もなくして革命が起こり軍事政権の誕生となったが、幸い政府や公団関係者と親しくなり、鉄鉱石はじめ金属資源の対日輸出のほか、亜鉛選鉱工場建設や石油パイプラインの敷設など、各種プロジェクト案件にも携わることが出来た。

 ペルー駐在中で特に印象深いのは、長大なアンデス山脈。その海抜3千メートルから4千メートルの高地に鉱山技師とともに鉱物資源探査旅行に出掛けた時のことだった。途中農家の軒下で仮眠を取りながらジープで行けるところまで行き、そこから先は馬に乗って細い山道を行くのだが、紫外線が強く空気も薄いので、呼吸が段々苦しくなる。目指す鉱物らしきものが見つかると技師の指図で馬から降り、鉱石標本をハンマーで叩いてその成分を調べる。良いものを見つけるまで何か所もサンプル採取を続けるが、前進したくても息苦しくて足が前に進まない。喉が渇いて水ばかり飲むので食欲は全然なく、無理して食べると吐き気を催すので、まるで生きた心地もしなかった。何度も何度も旅に出かけるが、無駄に終わることがほとんど。それでも時には良い鉱脈に出会うことがある。事業化するまでには、そこから更に気の遠くなるような日数とコストが掛かるが、その分、プロジェクトが成功した時には本当に充実した達成感に浸ることが出来た。

 真白く雪の積もった冬の寒い日に、海抜4千メートルのところにある現場事務所からエレベーターで地下数十メートルの銅鉱石採掘現場に降りた時のこと、ダイナマイトで鉱脈を割り鉱石を運び出す現場はとても暑く、作業着1枚でも汗だくの状態だった。鉱夫から作業状況の報告を受け、地上に上がってシャワーを浴びて飲んだ一杯のビールは実に旨かった。

 アマゾン川上流のジャングルに入り、原住民の住んでいる小さい小屋で仮眠しながら、石油の探査に出掛けたこともあった。石油の井戸は単に掘り当てても、その埋蔵量が一定レベルに達しなければ商売として成り立たないし、例えその条件をクリアしても、輸送問題を解決しないとビジネスにはならない。アンデス山脈の東側、ペルー領アマゾン川源流地域で採掘した原油を太平洋岸に運び出すためパイプラインの敷設することになり、日本企業がコンソーシアムを組成して、技術協力、販売協定を含めた、3億ドル超のプロジェクトファイナンスを組んだことがあった。日本側関係者と協力しながら、ペルー側と契約を締結する仕事は大変骨の折れるものだったが、そのお手伝いが出来たことは個人的にもとても良い経験だった。

 ラテンアメリカ20年の勤務の後、昭和52年から北米において3年間勤め、いったん帰国、東京本社で海外統括、企画の仕事をしていたが、定年前の昭和58年3月に丸紅34年の勤務を終えて退職した。

 その後、日系不動産会社の米国法人の幹部として11年間勤めたので、都合、会社勤務は合計45年となるが、海外では特に、夫々の国の人々に対する深い理解に加え、取引先や地域社会と友好的に接することが大切であると痛感した。

 会社生活45年を振り返ると、戦後の復興期から、文字通り企業戦士としてパイオニア精神でがむしゃらに仕事をして来た。戦後70年が過ぎ、その間、日本は復興の時代から右肩上がりの高度成長、そしてバブル崩壊後の低成長と、大きく変化して来た。それに伴い、今や政府も民間も変革を求められており、不況からの脱却、経済の活性化、行政の見直しと、いずれも大きな課題に直面している。これらすべてを実行に移すには、夫々の立場で痛みを克服しながら、新しいことを創造する知恵や能力が必要である。


2014年のクリスマスカード

 現在、米国ワシントンの郊外で娘夫婦とともに暮らす私達は、毎日NHKのニュースや日本の新聞などから多くの情報を得ているが、これからは様々な方面で明るいニュースが増え、日本がもっと良くなることを願っている。そして、日本人なら必ずそれを実現できるものと確信している。 最後になってしまったが、今、投稿の筆を置くに当たり、私の人生でここまでお世話になった、多くの恩師、先輩、会社の同僚たち、そして家族も含めた皆さん方に、心よりお礼を申し上げたい。


(やました よしお・1949年入社・米国ヴァージニア州在住)


バックナンバー