社友のお便り

2015年06月01日 社友のお便り

イギリス2800kmの旅

有馬 次郎 (1972年入社)

イギリス2800kmの旅(その1)


筆者 セントアンドリュースにて

 19世紀後半のイギリスの作家ギッシングは晩年の作、「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中で、「旅をして後年記憶に残っているのは、“場所”ではなく“時”である」と書いた。「景色ではなく、その景色に触れた時、自分を支配していた心境や感情が記憶に残っているのだ」と。

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 2015年4月27日、私は妻と二週間のイギリス旅行へ向け羽田を発った。事前に十分とは言えないが、行くべき場所を定め、それに沿って宿泊施設を予約し、レンタカーによる大体の移動距離も計算した。

 ヒースロー空港に到着後、まだ2,000マイル程しか走行していない赤いボルボのハンドルを握り、最初の宿泊地に向かった。空港で買う予定だったイギリスの道路地図のことなどすっかり忘れていた私は、車に内蔵されたカーナビゲーションだけを頼りに、不安に満ちたイギリスでの初めての運転を開始した。

 ロンドンから100km程南西に位置するプリヴェットという小さな町を最初の宿泊地にしたのは、翌日更に西に走り、ウェールズに住むイギリス人の友人家族に会う計画上、夕方のロンドン到着には、プリヴェットはちょうど良い運転距離にあったからだ。そして近くには、ジェーン・オースティンが晩年を過ごしたチョートンという村があるのも好都合であった。


2,800キロの走行ルート

 早朝に目覚めた。2階建てのモーテルの一階の部屋から出てみると、部屋の正面に駐車していたボルボのフロントガラスは霜で真っ白に凍っていた。寒い。しかし快晴だ。チョートンは牧歌的な村であった。ジェーン・オースティンが最後の8年間住んだという石造りの古い家は、現在ジェーン・オースティン博物館として、チョートンのほぼ中央に位置していた。この明るく落ち着いた村で暮らしたオースティンの作品が一種朗らかであるのは納得できると妻は述べた。

 チョートンから西に200km程走り、セヴァーン川に掛かる長い橋を渡ってウェールズに入った。この橋を渡るのに£6.50掛かったが、これが旅行中に支払った唯一の通行料金である。目指す友人の住むウェールズのアバガヴェニィ迄、羊の群がる牧草地や、黄一色の菜の花畑が限りなく続いた。道路標識はウェールズ語と英語の両方で表記されるようになった。

 周囲には牧草地の他は何もない友人の家に到着したのは午後2時過ぎだったが、美味しいスープとチーズをご馳走になった。この友人家族とはニューヨーク駐在時代の1990年代前半に知り合った。当時、私たちは緑豊かなニューヨークの郊外に住んでいたが、ブレコン・ビーコンズ国立公園の裾野に位置するアバガヴェニィの古く豊かな自然はその比ではなかった。


アバガヴェニィの田園風景

 この地方の村道の両脇には、年数を経て厚みのある頑強な背丈ほどのシュラブ(小低木)が綺麗に剪定され植え込まれているのだが、対向車が来たら相互に停車し、どちらかが後退し道を譲らないと通行できない程恐ろしく狭い。友人はこの道をくねくねと走り、小さな古い教会や1000年以上前の城跡、地元で有名なブラック・マウンテンを案内してくれた。山の丘陵には羊が群がっていたが、北極海やロシアからの強い風で、高い木は生育できず、一見、荒涼とした禿山のような風景であった。チェルノブイリ原発事故の時、ウクライナからの東風のため、放牧されていた羊は放射能に汚染され市場への出荷が困難になったそうだと友人は述懐した。

 その夜、自家製のロースト・ラムとワインをご馳走になりながら、愉快な会話は夜更けまで続いた。遠くにブラック・マウンテンの丘陵を望み、なだらかに山麓へと広がる5エーカー(約6千坪)の敷地には羊が長閑に草を食んでいる。羊は近くの農家から預かっているのだが、大量の草を食べてくれるので草刈の手間が省けるし、農家からは、毎年羊一頭をお礼に貰うのだと話してくれたが、これはジョークだったかも知れない。イギリスの車のナンバープレートには白色と黄色のプレートがあるのに気付いていたので、その違いを聞いたところ、「車の前のプレートは白で、後ろは黄色」との返答に皆で大笑いした。その頃、夜空は暗く曇り、星々を眺めることは叶わなかった。

イギリス2800kmの旅(その2)


ウィンダミア湖と放牧地

 翌日はアバガヴェニィから北上、ウェールズの北部にあるコンウィまでは約270kmの道程だが、前夜友人から貰ったイギリス道路地図帖のお蔭で運転も大分気楽になった。ボルボの運転や、当初は少なからず慌てたラウンド・アバウト(ロータリー交差点)にも慣れて来た。途中ガソリンスタンドに立ち寄り、このボルボはディーゼルを燃料としていることが分かった。ディーゼルの価格はガソリンよりも10%程割高であること、また、ガソリンの価格がリットル当り£1.10(約210円)程で、日本よりも相当高いことを知った。ついでながら、道路標識の制限速度や距離は車のスピードメーターやオドメーターと同様にマイル表示だが、ガソリンやディーゼルの価格はガロンではなくリットル単位であるのは甚だ妙なことだと思った。コンウィまでは、延々と連なる石塁(石積みの低い垣)で仕切られ、見渡す限り広がる羊の放牧地や菜の花畑の連続で、石塁の黒灰色、放牧地の淡緑色、菜の花畑の黄色のコントラストは見事であった。

 コンウィで一泊し、更に260km程北上すると、かの湖水地方に入る。遠くに望む連山の頂には雪が残っていたが、4年前初めて団体旅行で訪れた、観光客だらけの真夏の湖水地方に、冬になると雪を頂く連山があることが大層奇妙な感じがした。ウィンダミア湖を望むB&Bにこの旅行で初めて二泊して、車の運転も一休み、翌朝はB&Bの裏山から小高いジェンキンス・クラッグに登り、湖を眼下に眺めながらハイキングすることができた。ここでも夥しい数の羊を見た。生後間もない子羊は余程可愛いものだと何度も思った。

 次の目的地、スコットランドのエディンバラまでは240km程の距離だが、途中立ち寄りたい所が出て来ると、その誘惑に屈してしまい、運転距離も運転時間も長くなり、目指すエディンバラ城に着いたのは夕方だった。しかし大勢の観光客で駐車もできず、そのままB&Bに向かい、翌日バスで再訪した。朝からの雨にも拘わらず、エディンバラ城の入場券売り場は長い列で、夏の観光シーズンはさぞかし物凄い人混みだろうと想像しながら50分も待った。


ウェールズの菜の花畑

 エディンバラで二泊した後は、ネス湖のあるインヴァネス迄260km程のドライブを予定していたが、途中セントアンドリュースに寄ったため、実際は350km程の走行距離になった。広大なケアンゴーム国立公園が近づくにつれ、次第に羊の放牧地もなくなり、それまでの穏やかな景色が次第に荒々しい景色に変わって来た。インヴァネスに到着したときは、運転の緊張感から解放された心持だった。しかし、予期せぬ事態となった。インヴァネスの町に入ってからホテルまでは数キロの距離しかないのだが、カーナビが誘導する最後の数百メートルが道路工事のため封鎖されていた。止む無く他の道路に入ったが、カーナビはどうしても、封鎖された道路へと誘導を続ける。一時間ほど試みるが徒労に終わり、一旦インヴァネスの町を出て逆方向から入り直すことにした。逆方向に30km程走るとネス湖の東端だから、この際ネス湖まで行くことにした。途中、交通量は極めて少なく、湖沿いの狭い道の運転には大いに助かったが、小雨の中のネス湖は存外暗い湖であった。ほぼ一時間後、インヴァネスに戻ったが、今度はカーナビが前とは異なる誘導をして、無事ホテルに到着出来た。昼過ぎに到着する予定が、夜7時過ぎのチェックインとなった。

 翌日インヴァネスからネス湖に沿って西へと進むと、景色はいよいよ険しくなり、恐怖の谷とか死の谷と形容すべき、これまで見たことのない荒涼とした光景となった。これが、かのスコットランドかと思いつつ、緊張した運転が、フォート・ウイリアム、さらにそこから北上し、アイリーン・ドナン城まで続いた。霧雨の中に佇む、古城はネス湖と同じように陰鬱な景色だったが、晴れた日なら余程異なる景色だろうと思う。ここから宿泊地のインヴァレリィまでも終始気の抜けない不思議な景色が続き、そしてインヴァレリィが近づいても町らしい雰囲気は感じられず心細い気分だった。しかし、人口500人のこの小さな町は、雨上がりの翌朝、美しい素顔を見せてくれた。町の小高い処に教会があり、そこから僅か百メートル程のメインストリートが始まり、その先に広がるファイン湖で終わっている。道路の両側には衣料品店、雑貨屋、酒屋、パブ、小さなホテルなどが立ち並んでいた。教会の近くには監獄博物館があった。18世紀に建てられたインヴァレリィ城は今でも何代目かの侯爵が城主を務めており、数年前まで実際に住んでいたという人の気配を感じる美しく落ち着いた城であった。調度品や装飾品の素晴らしさにはひと際心を奪われた。城の庭園から眺めることのできるファイン湖は優雅であった。この町の良さを事前に知っていたら100kmしか離れていない、次の宿泊地グラスゴーを止めて、連泊していたことであろう。そのグラスゴーは大都会だったが、私達には殆ど、通過点に過ぎなかった。

 グラスゴーで一泊した後、再びイングランドへ南下、約350km離れたヨークに到着した。夕食のために入った川沿いのパブの窓からは、夜8時を過ぎていると言うのに、ビールの置かれたテーブルとほぼ水平に明るい西陽が差し込んでいた。翌日、古い石畳の路を歩いた。ヨーク・ミンスターの塔から中世の趣が豊かに残る歴史の町を一望した。そしてアメリカのニューヨークは、やはり、“ニュー”ヨークであると感じた。

イギリス2800kmの旅(その3)


フォート・ウイリアム付近で
奥様とボルボ

 5月9日、400km南にあるロンドン・ヒースロー空港に向けて私たちはヨークを発った。夕方までには十分到着できるはずだ。空港でボルボを返し、タクシーでロンドン市内に行くと旅行は終わる。面白い小説を読み、残りのページ数が僅かになると、読了するのが妙に惜しくなることがあるように、ヒースローが近づくと、この旅をまだ終わらせたくないような心持になった。しかし、レンタカーを返したときの安堵感は格別であった。ボルボの出発時のオドメーターは2,110マイル、返却時は3,875マイル。走行距離1,765マイル、2,824kmの旅であった。

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 ウェールズ、アバガヴェニィ。友人宅で夕食後、会話は黄一色の菜の花畑に及んだ。妻が、ブルーやグリーンの眼の友人と、茶色の私たちの眼に映る菜の花畑の黄色は果たして同じ色なのだろうか、と切り出した。旅行中数多くの景色に接した。その景色はそれに触れたときの私の心の目で映し出された景色なのだろう。だから、たとえ何年か後に、チョートンやアバガヴェニィ、インヴァレリィを訪れても、それは異なる景色に違いない。

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 ヨークを去った日、同じヨークシャーにある最後の目的地、ウェーク・フィールドに向かった。ギッシングが生まれた町である。しかし、赤い新車のボルボのカーナビゲーションはギッシングの生家も、ギッシングに縁のある場所も特定することはできなかった。


(ありま じろう・1972年入社・神奈川県横浜市在住)


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