社友のお便り

2015年01月01日 社友のお便り

ヒューストンは遠かった-自家用車での長距離転勤の記録

宇田川 義美 (1960年入社)

 今は昔、約50年前の1967年8月下旬、サマータイムが終わろうという晴れた日に摩天楼が並び立つニューヨーク市を出発して、米国南西部へ向かう一台の紺色のシボレーの中古車があった。
 運転席には男2名。1名は自分、日本商社の米国法人の若手日本人社員。ニューヨーク本店に一年半勤めたところで南西部の支店へ自家用車での移動・転勤を命じられた。運転免許は取立てであった。もう1名は見知らぬ土地、行路を一人で運転させるのは危険ということで、上司の配慮で途中まで付き添わせてくれた同じ職場の現地社員の先輩であった。
 ニューヨークからニューオーリンズ経由、新任地ヒューストンへの旅立ちである。車は広大な北米大陸の北から南へ合わせて2500キロを超える道をひたすら走った。この距離は日本列島を北海道の北端から九州南端までに相当する。



 車は米国東部の北から南に連なる「アパラチア山脈」の西側に沿った道を走り、テネシー州チャタヌーガを過ぎてアラバマ州バーミンハムへ。ここまでニューヨークから約1500キロ、よく走った。記憶は定かではないが、この辺まででモーテル(自動車旅行者のため宿泊所、Motor Hotel)に2泊したように思う。
 翌日は晴れた日で気分よし。車も快調でミシシッピー州ジャクソンを経てニューオーリンズに向かう。この日はゆっくりの運転になるが南部に深く入り込んだ所で、走っている車のフロントガラスに白い物体が次々とぶつかってきて、べったりとくっついて 風圧では剥がれず段々と運転に支障が出てきた。一体何事か。
 車を道路脇のガソリンスタンドに入れて、給油を頼むとスタンドの係員がさっさとフロントガラスの白い物体を拭き取ってくれた。繁殖期で空中に飛び立った卵を抱えた虫の群れに車が飛び込んだようで虫にとっては迷惑なことであったろう。2回のスタンド入りで繁殖地帯を通り抜けたあとは何事もなくニューオーリンズに到着した。


1969年4月(31歳と2歳半)テキサス州西部、FREDERIKSBERG付近?で。西部は新緑なし。NYK→HOU、転勤車で、長男と。

 ここまでの道中で一つ感じたことは、場所はよく覚えていないが休憩で立ち寄った南部の道路沿いのお店(カフェ)に入った時に、先客にニューヨークのナンバープレートを付けた車の男達2名は何者か、何をしにここまで来たのかというような眼で見られたことである。変な二人連れだったようだが、南北戦争の歴史も背景にあったかも知れない。
 車は無事駐車場でお休み。昨夜は疲れての到着で本場のJAZZを聴くこともなく寝た翌朝。折角の機会なので二人は午前中をニューオーリンズ観光に当てた。短時間なのでセントルイス大聖堂、フレンチクオターなど皆の行く観光名所を訪れた。古い街の印象だったが米国の異色の3大都市の一つと言われるだけのことのある街だった。


喜寿の祝宴でHOU時代の幼子が成人して、満77歳を記念して呼んでくれました(9月17日が誕生日)。

 街中の見世物屋でここまで殆どの行路を運転して下さった先輩とゴム製の「jail」(拘置所)の檻に入って記念写真を撮った。本物の「jail」でなくて良かった。
 午後はここから飛行機でニューヨークに帰る先輩をニューオーリンズ空港で見送り、いよいよ一人旅になった。フランク先輩、ありがとうございました。
 車は運転手1名で空港からヒューストンへ向かうが、結構距離があるので一足でとはいかず、日暮れも迫って来たので途中ルイジアナ州バトンルージュで一泊した。当時は食卓の香辛材「TABASCO」の製造地で、瓶のラベルに名前が載っていた都市だが、ただ寝るだけだったので残念ながら街の記憶はない。

 翌日は道路標識を頼りに最終目的地・新任地のテキサス州ヒューストン市に向かった。
 道路は大平原を一直線に分けるという様子ではなく、最初のうちは森か林の間を通り抜けているようだった。車はルイジアナ州レークチャールスを越えてビューモントから、化学工場の煙突で燃えるガスの炎を横目に見て、ヒューストン市街に到着した。車は帰国する先輩から譲り受けた物だが何の不具合もなく無事に長距離を走りきった。ご苦労様、かつ有難う。
 到着後、支店の皆様にご挨拶してヒューストンでの勤務と家族を呼び寄せての生活が始まった。
 転勤・移動の日数は、4泊5日。初日は行路の様子が全く解らないので、ともかく行けるところまで行こうと一日中ただ走り、距離を稼いだ。90キロ/時として10時間・・・900キロ。何処をどう走ったか全く記憶がないが、今回あらためて地図を見て、よくこんな距離を走ったものだと思った。この日は先輩が運転してくれた。2日目は走り出して暫くして道端の遊園地の広告に釣られ、近そうだしちょっと寄ってみようかということでおとぎ話の国に入った。洞窟の中のガラス窓の中に、白雪姫などのディズニー映画の場面が何箇所かある程度の見世物だった。この日も先輩が運転を担当。3日目はスローダウンして600キロ。ニューオーリンズも近づき、高速運転の景色にも慣れたので小生も少し運転した。4,5日目は500キロ・・・合計2,500キロの移動距離だった。
 今時あるかどうか、当時でも珍しい転勤方法だったと思う。いくら走っても中々終わらない大地に「米国本土の広さ・大きな空間」を体で感じた。良い経験をさせてもらった。
 インターステイトハイウエイの通行料が無料だったこと、自動車のガソリン代が安かった時代だったこともあり、自家用車利用での宿泊費・日当など経費と、本人の航空運賃、自家用車と家財の長距離貨車輸送料の合計との費用対比もあっての転勤方法だったと思う。

 ヒューストン支店に着任してすぐに家族呼び寄せに備えて住まい探しをした。新聞広告を見て2~3ケ所 for Rentの住居・アパートメントを訪ねたが、車の後部座席や後ろのトランクに家財道具を積み込んだ、まだ珍しい日本人にホイと部屋を貸してくれる訳はなく、どれも断られて困った。助けてくれたのは支店の先任駐在員で、Takara-so(宝荘)という名前のアパートを借りることが出来た。1LDKの部屋であった。中庭に小ぶりのプールのついた小ぢんまりとしたアパートだった。そして、1ヶ月後には待望の家族(妻と男児1名)が来てくれた。
 家族到着時のヒューストン空港は上空に黒い雲が立て込んで何とも言えない暗い空だった。家族が搭乗した飛行機は空港着陸直前にエアポケットに落ち込んで身体が浮いて怖い思いをしたと家内に聞かされた。気の利いたご主人は家族をロスアンゼルス空港まで出迎えて、一緒にヒューストン空港まで来ていたらしいが自分はそこまで気が回らず心配をかけて済まなかった、と今更ながら反省している。
 なお、ロスアンゼルス空港の乗り継ぎでは、赤子を背負って「ベビーケープ」をまとった家内を周りの人が親切にして下さって助かったとのことだった。なにしろ当時は家内も若くて子供が赤ん坊を背負っている珍しい景色だったようだ。
 Takara-soに入居して1年後の秋口にアパートの自分の部屋のすぐ裏手で火災が発生して、慌てて家財道具を部屋の外に持ち出したことがある。ところが隣人の皆さんは中庭に出て腕組みをして火災を見ているだけだったので驚いた。
 お陰さまで延焼なし、損害なし、家財を元に戻して終わったが、翌日には消防署の人が来て損害・煙害は無かったかと確認された。いろいろ勉強した。
 こうしてヒューストン新生活が始まった。


(うだがわ よしみ・1960年入社・東京都江戸川区在住)


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