社友のお便り

2016年07月01日 社友のお便り

ビートルマニア

市村 雅博 (1972年入社)

筆者近影

 英国リバプール出身の4人組ロックバンド、「ザ・ビートルズ」の熱狂的なファンのことを「ビートルマニア」と呼ぶ。かく言う私も、その「ビートルマニア」のはしくれである。私がビートルズの曲を初めて聴いたのは、彼らにとってデビュー2年目の1963年、私が中学2年生の時だった。正確に言うと、ビートルズそのものではなく、テレビの歌番組で、初代「ジャニーズ」(註1)が日本語で歌った「シー・ラヴズ・ユー」を聴いたのが最初だった。なぜか言葉では言い表せないような衝撃を受け、それが英国のビートルズというバンドの曲であることを知ると、ラジオのベストテン番組で彼らを追い駆けるようになり、すぐに直径17センチ45回転のEP盤や33回転のコンパクト盤を購入(当時のお小遣いでは、直径30センチ33回転のLPまでなかなか手が出なかった)、ビートルズ音楽の虜になるのにさしたる時間は掛からなかった。以来、かれこれ半世紀を超えるビートルマニア歴ということになる。

 ビートルズの楽曲は、その多くが、ジョン・レノンとポ-ル・マッカートニーの共作曲(一般に、レノン=マッカートニーのクレジットを使用)を含め、ほとんどがメンバーの作詞・作曲によるオリジナルであることが最大の魅力であり、その独創的なメロディやコード進行とともに、絶妙なハーモニーが生み出す斬新な世界観が何とも言えず新鮮である。さらに言えば、初期の頃、マッシュルーム・カットと呼ばれたヘア・スタイルや襟なしジャケットの着用など、次々とユニークなファッションを生み出したことに見られるように、既成の概念に囚われない、新しい若者文化の牽引役を担ったことも魅力のひとつだ。そして何よりも、彼らは録音技術の面で、初期の多重録音や2トラックから4トラック、8トラックへと進む果敢な挑戦など、ポピュラー音楽界における先進的な変革者でもあった。

 1965年、米国のテレビ番組「エド・サリバン・ショー」が日本でも放映され、その中でビートルズの出演シーンが流れた。当日は、番組の最初から最後まで、テレビに噛り付いていたことは言うまでもない。残念ながら、当時はビデオ・デッキも一般化しておらず、一夜限りの貴重なお楽しみであった。


1980年12月、小雪舞う
ダコタハウス前

 1966年6月末、ビートルズが来日、日本武道館で公演を行った。当然のことながら、チケットを買って本物を観に行きたかった。しかし、父親に止められ、その夢は叶わなかった。当時、ビートルズの公演は熱狂的なファンで大混乱となる恐れがあり、怪我人も出かねないとマスコミが大々的に報道していたからだ。やむを得ず、7月1日夜のテレビ放映(同日昼公演の録画)で我慢したが、この世紀のイベントの現場に立ち会えなかったことは、私の人生にとって今でも心に残る一大痛恨事である。テレビで観た彼らの演奏は、曲目が僅か11曲と少なく、マイク・スタンドの不調などもあり、コンサートとしては不満の残る内容だったが、実際の演奏シーンを観られるチャンスなど、めったになかったので、テレビ鑑賞でもそれはそれで十分に楽しめた。ちなみに、彼らが宿泊した「東京ヒルトンホテル(現・キャピトル東急ホテル)」は、私が通っていた高校から至近距離にあり、警官隊による厳重警戒でホテルに近づくことも出来なかったのだが、昼休みなど、ドキドキと胸が躍る気分だったことを覚えている。

 ビートルズは、あっと言う間に世界の音楽シーンを席巻したが、残念ながら、1969年1月頃からメンバー間の不和が伝えられ、1970年4月には解散してしまった。その後、ジョンは、ニューヨークに移り、独自の音楽活動を始めたが、ファンとしては、ビートルズの再結成を期待して止まなかった。その期待を脆くも打ち砕いたのが、1980年12月8日に起こった、熱狂的なファンによるジョンの射殺事件だった。当時、私はニューヨークに赴任して1年ほど経った頃であり、マンハッタンで取引先と会食中だったが、事件が臨時ニュースで報じられ、大きなショックを受けた。次の週末、事件現場のダコタ・ハウス(註2)の前に行き、小雪の舞う中で多くのファンとともに、ジョンの不慮の死を悼み、事件を嘆き悲しんだ。


ストロベリー・フィールド正門

 時が流れて、1997年4月、私は英国ロンドンに赴任した。アパートを決めて、クルマを購入した最初の休日に、市内北西部のセントジョンズ・ウッド(註3)にある、アビーロード・スタジオ前の横断歩道に行った。ビートルズのアルバム「アビイ・ロード」のジャケット写真で4人が渡っている有名な歩道であり、ファンの聖地となっている場所である。そして最初の夏休みは、リバプールまで片道4時間半の日帰りドライブをした。アルバート・ドックのビートルズ博物館、ストロベリー・フィールド、ペニー・レーン、マシュー・ストリートのキャバーン・クラブ、どれを取ってもビートルズ・ファンには馴染み深い場所であり、まさにセンチメンタル・ジャーニーといった趣だった。リバプールには、その後も3度行った。赴任して半年ほど経った頃、ロンドンで「モントセラト島救済コンサート」と銘打ったコンサートを聴きに行く機会があった。カリブの火山島で起こった火山噴火の被災者を救済するためのチャリティ・コンサートだったが、そこにポールをはじめ、フィル・コリンズ、エルトン・ジョン、エリック・クラプトンなど、錚々たるメンバーが出演したのだ。フィナーレでは会場総立ちの熱狂ぶりだったが、大好きだったジョンやビートルズの他のメンバーのいないステージは、私にとっては少し寂しいものだった。その後ある時、自宅近くのパブのカラオケで、「オール・マイ・ラヴィング」を歌ったことがある。その時はそれなりに好評だったのだが、今思えば、なんと大胆なことを!と、赤面の極みである。


リバプールで購入したプラモデルの
ビートルズセット

 社会人となってからは、発売されたCD、DVD(近年発売された、デジタル・リマスター版も含め)をすべて購入した。今でも、クルマの中で聴く音楽はビートルズの曲ばかりだし、毎日の散歩に欠かせないIPodに保存してある曲もほとんどがビートルズである。私の葬式は、ビートルズの音楽葬にしてくれと、家人には言ってあるが、イザという時に、それはどうなるか分からない。私がどうしてここまでビートルズに惹かれるのか、その理由はよく分からないが、私自身、中学・高校・大学と、バンド活動に熱中したのは、彼らに大いに刺激された結果であることは間違いない。若い頃からエレキ・ギターの金属質の音が大好きで、ビートルズの曲の中では、エリック・クラプトンをフィーチャーした、ジョージの代表曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のすすり泣くようなギターソロが、今でも一番のお気に入りだ。

 ちなみに、前述のビートルズ来日から、今年で丸50年。7月初めには盛大な来日50周年記念イベントも予定されていたが、残念ながら、主催者側の都合で中止となってしまった。

 同年代のビートルマニアの皆さん、いつまでもお元気で!

注1:初代「ジャニーズ」は、今をときめく、「ジャニーズ事務所」設立のきっかけとなった、4人組のアイドル・グループで、メンバーは、真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦。4人は、元々社長のジャニー喜多川が率いる野球チームのメンバーだったという。デビュー後、人気が出始めると、テレビの音楽番組などで引っ張りダコとなったが、1967年に解散した。

注2:ダコタ・ハウスは、ニューヨーク・マンハッタンにあるセントラル・パークの西側に、道路1本を挟んで建つ高級アパート。ジョン・レノンと妻のオノ・ヨーコは、1973年に入居、75年にここで息子のショーンが生まれた。80年12月に、その玄関前でジョンの射殺事件が発生したが、ヨーコはその後も住み続けた。

注3:セントジョンズ・ウッドは、ロンドン北西部の高級住宅街。市内中心部からも近く、日本人駐在員が多く住む。ちなみに、丸紅の主管者社宅も、この地域にあった。ビートルズゆかりのアビーロード・スタジオでは、ビートルズ以外にも多くのミュージシャンの楽曲が録音された。


(いちむら まさひろ・1972年入社・千葉県柏市在住)


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