湘紅会

2014年04月30日 湘紅会

満25歳を迎えた湘紅会①

―― 歴史のロマン・さきたま古墳・忍城址巡りバス・ハイク ――


 平成26年のバス・ハイクは3月28日(金)に実施。この日は好天に恵まれ、参加者39名(うち女性7名)と万歩会発足以来の記録を更新。
 バスは横浜駅西口を7時30分出発し目的地の埼玉県行田市に向かう。年度末の影響か渋滞に遭うがこの企画を提案された松本俊一郎さんより「さきたま古墳群・忍城」の歴史などについての説明をお聴きしたりしているうちに11時15分行田市の「埼玉県立・さきたま史跡の博物館」に到着。 

♦埼玉古墳群と国宝・金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん

 博物館の学芸員より古墳群及び博物館の出土展示品についての説明をうけたのち展示品を熱心に見学。
 県名発祥の地である行田市埼玉(さきたま)周辺には、5世紀後半から7世紀はじめころまでにつくられた国内有数の規模を誇る大小様々の9基の大型古墳が群集。円墳の丸墓山古墳を除く、稲荷山古墳、二子山古墳など8基は、大和王朝の勢力が及んでいることを示す前方後円墳である。
 中でも丸墓山古墳は主軸長105m、高さ18.9mと日本一大きな円墳で、出土した埴輪から6世紀前半に造られたと考えられている。また、古墳手前の道は戦国時代に忍城を水攻めする時に築いた石田堤の跡(後述)と言われている。
 稲荷山古墳(前方後円墳)は昭和43年(1968)に発掘調査され、金錯銘鉄剣・帯金具・勾玉・鏡をはじめ多くの遺物が出土され、これらは昭和58年(1983)に一括国宝に指定された。
 鉄剣に刻まれた115文字の銘文は「(わたくし)ヲワケの先祖は、代々杖刀人首(じょうとうじんしゅ)(親衛隊長)を務めてきた。わたくしはワカタケル大王(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐してきた。そこで辛亥の年(西暦471年)7月に、このすばらしい刀剣にこれまでの輝かしい功績を刻んで記念する」との意味で、我が国古代国家の成立を読み解く貴重な手がかりとなっている。

♦忍川の千本桜は、未だ蕾み

 一縷の望みを託していた忍川・酒巻導水路両岸の千本桜は、大雪の影響で蕾は膨らみかけていたが、残念ながら開花しておらず。
 水城公園にて暫しの小休止をかねて、万歩会恒例の会員・石井孝二さん手作りのロール・ケーキをおやつにいただき、“カンヒザクラ”と“エドヒガン”を鑑賞して次の忍城跡見物に向かう。

♦忍城址・行田市郷土博物館


忍城三階櫓

 忍(オシ)城は室町時代(15世紀後半)に成田顕泰(あきやす)により築城され、戦国時代には城主成田氏長は小田原の北条方につき豊臣勢と相対した。
 石田三成率いる秀吉勢に包囲され水攻めにあったが、小田原城開城の北条方敗北まで籠城し北条方で最後まで残った城となり、水攻めに耐えた忍城は別名「浮き城」として知られている。水攻めの時の城代成田長親は領民から「でくのぼう」と呼ばれ、略して「のぼう様」と大変親しまれる人物であったようで、 映画「のぼうの城」は成田長親のエピソードを描いたもの。石田三成が忍城の水攻めに築いた堤は“石田堤”と呼ばれ14kmとも28kmとも伝えられているが、現在残されているのはわずかである。
 忍城は家康の時代に家康の四男松平忠吉が入城、以後次々城主が変わり、明治6年に取り壊された。三階櫓を模して櫓が再建され「忍城址」となっている。
 嘗て日本一の足袋の生産量を誇っていた行田の歴史などを展示している郷土博物館は残念ながら休館日であった。

♦帰路も渋滞だったが無事帰着

 忍城公園駐車場を14時30分出発。東北自動車道・首都高も相変わらず渋滞で、予定した到着時間時より2時間遅れ18時に横浜駅東口に到着・解散。

以 上
万歩会世話人 内田正夫 記


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