行事報告

2017年06月16日 行事報告

2017年6月度関西地区社友会例会行事報告

日時 2017年6月16日(金)
場所 丸紅大阪支社(新ダイビル31階)
講師 大阪城天守閣館長 北川 央氏
演題 「豊臣秀吉の大坂築城と城下町大坂の建設」

 関西地区社友会の2017年6月度月例会は、大阪城天守閣館長 北川央(ひろし)氏をお招きし、歴史上インパクトの強い豊臣秀吉の大坂築城と城下町の建設について、講演して頂きました。参加者した社友の皆さんは、会社発祥の地(船場)でもある、我が町大阪に関する大変興味深い講演内容に、熱心に耳を傾けておられました。以下、講演の概要です。


1.秀吉の大坂築城

①大坂城前史

大坂城には秀吉以前にも豊かな歴史がある。1496年、本願寺8世蓮如が、当時京都郊外の山科にあった本願寺の別院として大坂御坊を建立。1532年、山科本願寺が焼き討ちされたため、翌年、本願寺本山を大坂へと遷座する。1570年から1580年の10年間に亘る本願寺と織田信長との戦は、正親町天皇の仲裁を受け入れ、和議を締結。11世顕如は紀州鷺森へ退去。長男教如が徹底抗戦を主張したが(これが本願寺東西分裂の遠因)、結局退去。その際、本願寺及び寺内町は全焼。信長は、この大坂本願寺跡を「大坂城」として利用し、天下統一の本拠地にしようとした。これを継承したのが秀吉である。

②大坂城築城
1583年6月2日、秀吉は京都・大徳寺で信長の一周忌法要を済ませたその足で、大坂城へ入城し、信長没後の清洲会議で大坂城主となってた池田恒興から大坂城を接収する。秀吉は旧城の構えを利用して築城工事を行い、安土城をはるかに凌ぐ壮大な城が完成した。  現在地表に見ることの出来る大坂城の遺構は徳川幕府の修築したもので、秀吉築城の大坂城の遺構は地下に埋没しており、2019年に一部公開の予定。

2.城下町大坂の成立

①城下町の建設(初期の町建設は南北軸)
秀吉の初期の城下町建設は、築城に先行して始められ、大坂城と四天王寺門前町との間を、平野郷の人々を移住させた「平野町」でつなぎ、さらに住吉・国際港堺へと結ぶ計画で進められた。 同時に秀吉は、大坂遷都計画を強行に推し進めたが実現せず、逆に朝廷から関白の地位を与えられ、自らが京都に聚楽第を築き、移り住むことになる。

②慶長の大地震と三の丸造成(町建設が南北軸から東西軸に変化)
1596年の慶長の大地震で、堺は壊滅的な打撃を受け、それに代わる外港建設の必要性に迫られた。一方で秀吉は、自らの没後、秀頼の身の安全を図るため、大坂城をより一層堅固にする必要性にも迫られていた。そのため秀吉は、船場の開発と三の丸造成を同時に行った。三の丸造成ではそれまで住んでいた町人の家屋7万軒以上が船場へ移転させられ、船場では東西軸で町が建設された。秀吉の手掛けた城下町大坂は、豊臣家滅亡後も徳川幕府の西日本支配の拠点として繫栄した。



(関西地区幹事:羽場 知廣)


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