行事報告

2018年05月22日 行事報告

2018年5月度中部地区社友会例会行事報告

日時 2018年5月22日(火)12:00~
場所 丸紅名古屋支社9階会議室
講師 明智 憲三郎氏
演題 「本能寺の変 431年目の真実」

 2018年5月の中部地区月例会は、歴史研究家の明智憲三郎氏をお招きして、「本能寺の変 431年目の真実」と題して、ご講演をいただきました。社友28名に加え、古賀中部支社長以下現役5名の皆様、さらに事業会社からも3名のご参加をいただき、合計36名の皆様のご参加となりました。


 講演の前に、古賀中部支社長から挨拶をいただき、広域対応となった中部支社の組織改編に関するご説明とその役割遂行に当たっての決意表明をいただくとともに、丸紅として史上最高収益となった2017年度業績のご説明に加え、2018年度予算の遂行により、社友の皆様ご期待の株価上昇に繋げて行きたいとの嬉しいお話をいただきました。


 講師の明智憲三郎氏の本職は、歴史学者ではなくエンジニアです。歴史研究は、「本能寺の変」のみを扱っておられます。明智光秀の子孫(側室の子、於づる丸の子孫と伝わる)として、「逆臣光秀」とまでされてきた先祖に対するつらい思いが、特色ある歴史研究の基となっており、ニ十歳の頃、「怨恨説は後世の作り話」と語る一冊の歴史書を知ったことが本格的な研究を開始するきっかけとなったとのことです。それからは「なぜ謀反を起こしたのか、真実を知りたい」との思いで、「本能寺の変」解説本を読み漁ったものの、納得できる説明には巡り合いませんでした。「自分がやるしかない」と思い至り、研究を決断。犯罪捜査と同様の手法で、科学的・論理的調査の「歴史捜査」に着手。答えありきの「見込み捜査」はせず、「証人=資料、証言=記事、証拠=信憑性ある記事」に基づき、証拠が矛盾なく成立する蓋然性の高い答えを導き出す作業を繰り返しました。捜査の手順は、「証言集め」→「証言の信憑性評価」→「時代状況復元」→「真実の復元」→「真実の検証」です。


 以下は、明智氏の講演の概要です。目からウロコの壮大な歴史ドラマをお楽しみ下さい。


 

 従来の「本能寺の変」は、軍記物依存症・三面記事史観・蓋然性欠如の欠陥があります。軍記物→歴史学者→歴史小説→大河ドラマ→常識の順で、怨恨説・野望説が定説として刷り込まれ定着してきました。証言評価の捜査結果では、定説の基を作ったのは、秀吉の家臣が書いた「惟任退治記」と判明しました。


 戦国時代の武将の意思決定は、「生存合理性」に貫かれており、一族と子孫の生存責任を有します。主君と家臣の結びつきは知行にあります。失敗すれば一族滅亡に直結する謀反は、謀反しなければ一族滅亡するとの危機認識が無ければ釣り合わず決断されません。また謀反が成功する目算が無ければ決断しません。孫子の兵法「戦う前に勝つ作戦を立てよ」です。


 時代状況の復元過程で捜査範囲が広がります。「愛宕百韻」から「連歌規則」、「土岐氏の歴史」、「信長の戦略」から「父親信秀の事績」、「中国の故事・諸子百家」、「イエズス会」から「ポルトガル・スペインの歴史」、「大航海史」など。


 謀反の動機について、光秀の自白があります。「愛宕百韻」の発句「時は今 あめが下なる 五月かな」(あめが下知る:天下を治めるの意は、秀吉の改竄)。信長は、「中国の故事」や「イエズス会」情報に基づいた知識と先見・察考・決断・実行力を備えていました。動機解明には、時代を広く見て信長が成し得なかった事をも考察することでした。


 光秀謀反の動機は、「唐入り」でした。後に秀吉が行った中国大陸「明」への進出(表向きは領土の獲得ですが、実際は戦国エネルギーの海外放出<将来の危険人物の国外放逐>)です(大型軍船の目途なきため、陸路の朝鮮経由の出兵)。「唐入り」は信長が考えていた生存合理性の追求計画だったのです。


 本能寺の変の歴史捜査結果は、捜査者も驚く内容でした。信長が見ていた将来の最も危険な人物は、徳川家康でした。強敵武田氏が滅亡した後の父親信秀時代からの敵対者は徳川氏のみであり、家康暗殺の実行予定場所は、少人数の供だけとした「本能寺」(安土城では大義名分が立たない)でした。


 光秀謀反の決断は、信長の「唐入り計画」を悟った時に始まり、謀反の成功条件(信長打ち+信忠打ち+畿内織田軍制圧+東国織田軍制圧+徳川軍制圧)に目算が立った時に実行となります。光秀は信長の家康打ち計画(本能寺での家康と重臣の暗殺と徳川領への侵攻、光秀軍勢は徳川領への侵攻軍団)を知った段階で、謀反の成功の条件を整えるべく、家康と秘密裏に同盟しました。本能寺の変の結果は皆様ご存知の通りです。信長の最後について、噂によると明智軍に包囲されていると知らされた時、「余は余自ら死を招いたな」と言ったとのスペイン商人の証言が「日本王国記」に記載されています。


 後日の歴史は、秀吉の天下統一と子孫の滅亡、家康政権の成立と子孫の繁栄でした。家康は徳川の後継者である孫の乳母を、光秀の重臣斎藤利光の子「福(後の春日局:子孫は幕府の重臣となる)」としました。また、光秀と同族の土岐明智氏であった菅沼定政を土岐姓に戻し、大名に取り立て土岐氏を再興、後に子孫は上野沼田藩主となりました。命の恩人光秀に対する、家康の感謝の現れとみられます。


 歴史は未来学。歴史に学び、ご自身の現在と未来に活かしていただきたいと思う次第です。


 詳しくは、明智憲三郎氏の著作「本能寺の変 431年目の真実」、「本能寺の変は変だ 435年目の再審請求」、「織田信長 435年目の真実」をご覧ください。


 来るオリンピックの年、2020年のNHK大河ドラマは、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」に決定しました。なお、本年8月には、明智憲三郎氏執筆の「明智光秀」も出版予定です。ご興味のある方はぜひご一読ください。




(中部地区幹事:立川 賢司)


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