日 時 | 2013年4月30日(火) |
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場 所 | 丸紅東京本社16階講堂 |
講 師 | 篠田正浩氏(映画監督) |
演 題 | 「デジタル技術と映画の出会い」 |
篠田です。ご紹介いただいたように大変な車好きだったのですが、今年82歳になりましたので先月廃車にし、免許も返上して、走る人、乗る人から「歩行の人」に戻りました。
映画監督の仕事は2003年に「スパイゾルゲ」を撮って終わりとして、以後は本を書いております。私は早稲田の演劇科の卒業ですのでようやく70歳から80歳の10年で本業の学問の世界に戻りました。
本日は私についてのお話をということですので、「スパイゾルゲ」を撮った話をしたいと思います。
本日ここに来るのに地図で検索していたら、九段会館のすぐ近くであることがわかりました。九段会館は本日お話しする2.26事件の舞台になった所でもありご縁を感じました。
2.26事件では大雪の東京の街を再現しなくてはなりません。昔のロケの手法では経済的にも、とても無理です。デジタル映像を利用しなければできません。まず、デジタル技術の基礎知識の話をします。
私も映画人生の後半に初年兵のように学びました。最初のフイルムはセルロイドに水銀と鉛をコーテイングしたものに化学反応を起させる、化学の世界です。それに対してデジタル画像は物理学の世界です。0と1ですべてを表現します。色でさえもそうです。ピクセル(画素)で表します。テレビは50万の画素、ハイ・ビジョンは200万画素、今は4K(800万画素)にまで技術進歩しています。
化学の世界のフイルムを0と1の世界に移し変えるのにスパコンを総動員して、1コマを読み取るのに4分、1秒24コマのフィルムは96分掛かります。スキャニングと言いますが、本格的に手掛けたのがスピルバーグ監督の「ジェラシックパーク」です。アメリカでスキャニングしたものを時差を利用してロンドンに持っていって続け、更にインドのムンバイで行ないました。デジタルがない時代、私が「夜叉が池」を作った時はイグアスの滝やハワイでロケをし、アナログのフィルムだけで滝や洪水を表現しました。
全編、昭和10年代の日本を背景にしたデジタル技術を使わないと「ゾルゲ」は作れなかった。準備として1988年に森鴎外の「舞姫」をこの技術で作りました。スエズ運河の船上のシーンでは、現地ロケは経費的にも治安上も不可能でした。そこで船は商船大学の明治丸、海は東京湾、砂漠は鳥取の砂丘、アラブの駱駝もいますので馬子にアラブの衣装を着せて、現地人の駱駝引きになってもらいました。更にもう一本、実験作品を作りました。「写楽」です。150人のスタッフで撮影した場所の京都の町で江戸の街の賑わいを作り出さなければならない。江戸の中村勘三郎の中村座の再現です。因みに中村座は江戸時代で20回以上も火事で焼けたがユニットを用意してあるので2ヶ月で再建したそうです。この2つの経験からデジタル技術で昭和の東京を再現できると確信しました。「スパイゾルゲ」では技術的にはソニーの開発した200万画素のデジタルハイビジョンカメラと、録画はドイツ製のマシーン、レンズは米国製のパナビジョンのものを使用、いわば三国同盟で映画を作ったわけです。
では何故「スパイゾルゲ」を撮ろうと考えたのかをお話します。
私は1931年(昭和6年)3月9日の生まれです。同じ年の9月18日に満州事変が起りました。中国では屈辱の日となっていますが、私は、日本人は戦争から学ぶことが本当に少なかったのではないか、と考えています。歴史の一番の相手はアメリカだという事を忘れてはならないと思います。満州事変から真珠湾に突入した日本をアメリカは決して許してはいません。靖国を認めていない一番の国はアメリカです。中国を侵略し、真珠湾を不意討ちした日本は殺人国家で英霊はいないといっています。キッシンジャーは周恩来に、日本の経済成長は大失敗だったといっています。日本を見捨てて中国と手を結ぶのが基本戦略でしょう。
ここに来る途中に平将門の首塚を見てきましたが、神社になっています。死者のタタリを恐れ、謀反人でも神としてまつる縄文以来の日本人の心があります。キリスト教やイスラム教とは違うものです。
満州事変で一番ショックを受けたのはソ連です。次はシベリアに攻め込むのではないかと恐れたわけです。そこで上海でスパイ活動をしていたドイツ人のコミュニスト、ゾルゲを送り込み、日本の情勢を探らせました。昭和8年(1933年)のことです。2年後にナチスの雑誌に「日本の軍部」という論文を載せています。普通の取材で書ける内容のものですが、陸軍の若手将校たちが反乱すると予言した観察は正確に的を得ています。日本人には分らなかったのでしょうか。
この翌年に2.26事件が起ります。私がこの事件に興味をもった原点は単純で、父親の使っていた剃刀がゾーリンゲンで音が似ている事と、尾崎秀美が同郷の岐阜県人で同県人が国賊だという屈辱感があったからです。戦後は英雄にされ、社会主義の没落後は宙ぶらりんの状態です。反乱軍の思想は天皇の下では日本人皆が平等であるという点でコミュニズムに通ずるものがあるといわれています。満州事変は中国に対しては侵略であり、20歳~30歳台の若者を120万人も送り込んだ。現地でなにがあったのか、大きな屈辱を与えた事は忘れてはならないでしょう。
満州事変は侵略であるとして、アメリカでは制裁として日本からの生糸の輸入を禁止しました。大統領夫人までが音頭を取っています。生糸の98%はアメリカ向けであり、外貨収入の46%を占めていた生糸のボイコットは巨大な利益を失いました。そこに昭和8年の東北大飢饉が追い討ちを掛けました。
満州事変から2.26事件まで犠牲になったのは農民です。日本本土に侵入したのは、元寇をのぞけばアメリカだけです。日本人は卑弥呼の時代から海に守られてきて、歴史や時代を読むのに不適格な民族になってしまったのではないか。日本人はこの状況に甘えているのではないか。我々の政治的危機は昭和も21世紀も同じ性質のものだと思います。
ゾルゲと尾崎は御前会議の内容を察知します。日本は石油を求めて南進する。シベリアには向かわない。そして仏印に進駐する事になります。この報を受けたスターリンは直ちにシベリアの軍隊をモスクワに戻し、ヒトラー軍を打ち破りました。冬のモスクワを捕虜になったドイツ兵士が裸足で歩かされました。
このゾルゲの映画を作るのに10年掛かりました。大学時代から考えていたので、それを入れれば30年以上です。映画作りは人との出会いなど諸々の要素があります。アイデアが増殖し、資本が投下され、最後は何百万人の観客に到達します。この映画の製作の動機は私が1931年に生まれた事が決定的です。時代の精神を映画で表現したかったのです。実はこの映画は日本では余り評判にならず、最初にハーバード大学、次いでエール大学から講演の依頼が来ました。1930年代の日本人を知る大きな材料になるとの評判を戴きました。
陸上競技の先輩で東大から三井物産に行かれたI氏がそのころヨーロッパに駐在されていて、いち早くヒトラーの敗北を本社に伝えたと、私に語ったことがあります。軍や政府より早かったようです。商社の情報が日本を救うことがあるかもしれない。このことを後輩にお伝え下さい。
これで話を終わります。ご清聴有難うございました。
(文責:寺尾)