日 時 |
2013年6月27日(木) |
場 所 |
丸紅(株) 大阪支社2階講堂 |
講 師 |
千 宗守 氏 茶道・武者小路千家 第14代家元 不徹斎、(公財)官休庵理事長 |
演 題 |
「戦争と茶の湯―千利休時代を中心に―」 |
Ⅰ. 茶道
「日常茶飯事」といわれるように、米と茶は日本人の日常生活に無くてはならないものである。米は縄文後期3,000年近い歴史があるのに対し、茶は800年前鎌倉初期に到来し、米と比べ歴史は浅い。しかし、単なる嗜好品ではなく某かの付加価値を有す。
- 一服の茶を飲むことによって、しばし、日常を忘れ、一時の別世界を作り上げるという効能を有す。
- 道具(器等)、部屋(茶室)、環境(露地)等で演出し、別世界を作り上げものが、茶の湯。
- 茶道は江戸中期、世の中も落ち着き、徳川幕府は儒教を重用し、茶の湯は武道、柔道、花道等とともに、精神性を盛り込んだ茶道(ちゃどう)と呼ばれるようになった。
Ⅱ. 抹茶の伝来
- 平安時代末期、最後の遣唐使により、茶は日本に持ち帰られたが、これは「団茶」と 呼ばれ、余り普及せず、消滅した。
- 鎌倉初期、栄西禅師が中国の宋より、持ち帰る。(1185年)
- 禅宗は今までの仏教と異なり、心の平安、ご利益を得るものではなく、座禅のみ→自力本願=武士の共感
- 座禅は睡魔との闘いが強要され、その際、一服の抹茶の効能が重宝される。(喫茶去=禅問答の言葉=出直せ。一服の茶を飲むことにより、蘇生効果を狙う。)
Ⅲ. 茶の湯の普及
- 禅宗と共に武士及び、上級階級、貴族の世界に広がる。(因みに中国ではこの時代を境に中原4,000年の生活廃水問題により、抹茶は衰退する)
- 闘茶による普及(14世紀~15世紀)。茶は高山寺に植えられ品質の良い茶が出来たが(=本茶)、一方質の悪い茶(=非茶)があり、これらを飲み比べるギャンブルが流行し、全国特に西国に流行し、茶の普及が急速に促進された(闘茶札が大量に発掘された事により明らか)。こうして、茶の湯は精神、武道、と遊興性がミックスし、普及した。
Ⅳ. 武士社会と茶の湯(応仁の乱、戦国時代の後)
- キリスト教の宣教師により、種子島に鉄砲が伝来する。一方、室町幕府により、貿易港として、開かれた「堺」において、堺商人が鉄砲に目をつける。又、堺は染め工場(硝石=火薬生産)、農業、耕作のための金属生産(鍛冶=鉄砲の生産)と鉄砲生産のための条件が揃っており、短期間に鉄砲の生産能力を身に付けた。
- 一方、兵農分離、等で全国統一を目指した織田信長は鉄砲の調達の為、堺商人に接近し細川等を登用し、茶礼を催し、堺商人との接点を作り、同時に有力大名を茶礼に招き、取り込んだ。堺商人(茶人)の中でも、頭角を表していた宗易(後の利休)と秀吉の関係もこのころ、出来あがったと見られる。
- 本能寺の変にて、信長亡き後、秀吉が登場、堺商人としても、堺の安定の為、宗易を特命大使とし、秀吉との関係樹立を画策し、実現させた。かくして、茶会に有力大名を招き、閉ざされた、別世界で本音の話をし、秀吉の意向で、物事を決し、取り込む方法で秀吉は利休と共に、天下統一を果たした。
- 利休100回茶会の最後の茶会といわれる徳川家康との茶会は家康の毒殺を命じられたといわれているが、利休は家康の命をすくった。
- 利休は結局、秀吉又その側近により、切腹を命じられるが、これは、余りに多くの、又、裏社会の事を知りすぎた利休を危険視し、詰め腹を切らせたものと目される。
- 尚、家康は命を救われた恩義の為、流罪になっていた、利休の家族を京に呼び戻す。又、3代千宗旦は家光の将軍指南を固辞し、子供たちに大名指南をさせ、今日に至るまで、利休の血統と道統を継続することとなる。
Ⅴ. 茶の湯の本質
茶の湯の世界は各種演出の道具を用い、集団性のある別世界を創出し、特殊な人間関係を構築する力を有す。
戦国時代禅宗と共に武士階級にもてはやされ、その後時の権力者と豪商が茶の湯を介し結びつき、相互の利害が一致する形で、普及し又、政争の具として利用もされ、揺るぎのない、茶の湯の世界が展開された。
演題「戦争と茶の湯」に沿った形で、お話しいただき、我々の知らない茶の湯の世界をご披露頂いたが、茶道は「わびさび」含め、今日の日本人の特質、精神を育んだ日本文化を代表する「道」であり「文化」である事間違いなく、その奥の深さを改めて、感じられた。
(文責:森川 建)