行事報告

2011年04月22日 行事報告

関東地区4月度月例会

日 時 平成23年4月22日(金)
場 所 東京本社16階講堂
講 師 樋渡 利秋氏(前検事総長)
演 題 裁判員裁判―その理念と運用の実際<

 日本の社会の仕組みを大きく変えて、民主主義を本当に根付かせるための可法制度改革が発足して、10年が経ちました。その目玉中の目玉と云うべき裁判員裁判制度について、司法制度改革審議会事務局長として、その生みの親である前検事総長の樋渡利秋氏よりお話を伺うことになりました。東日本大震災を受けて多くのイベントが中止や延期となりました。今月の例会も延期を検討しましたが、講演の内容が日本人の真面目さや知的水準の高さを検証できるものであるため、日本人の底力が問われる復興に対してエールを送る意味も大きいので、あえて予定どおり行なうことに致しました。


 裁判員裁判制度は成熟した民主主義国では、当然の国民の司法参加の制度であり、明治維新以来の懸案でした。お聞きになられた後で我が日本国も捨てたものではないという気持ちになられることを確信しています。


< 講演要旨 >


 全国民の大きな関心の中で始まった裁判員裁判制度も施行後3年近く経過し、見直しの時期も近くなりました。当初危惧された、例えば日本人に陪審制度が馴染むのかとか、死刑を含む重大な判決に一般人を関与させる事が適当かどうかという懸念は一掃され、期待された機能を十分果たしキチンと進んでいます。


 本年3月31日現在裁判員裁判では20,000人の方が裁判員をつとめられ、判決件数は2,000件余り、その内、死刑求刑事件が7件(内、無期が1件、無罪が1件、5件は死刑)、無罪判決が5件、検察が控訴した事件が6件となっています。一般国民の常識を裁判に反映させるという制度の趣旨から、検察としては、なるべく控訴はしない方針で臨みました。「耳かき殺人事件」は死刑求刑に対し無期懲役の判決となりましたが控訴せず遺族には十分な説明を致しました。放火窃盗事件で放火については無罪の判決となりましたが控訴の結果、差し戻しの控訴判決がでました。これは一審で前科を裁判官が証拠として採用しなかったためで、裁判員に対して十分な情報を提供しなかった虞れがあり再度裁判員裁判を行なう事になった新しい例です。
 覚醒剤の密輸事件では、無罪が控訴審で有罪になったケースもあります。裁判員に選ばれた方々は真剣に考え、悩みながらも敢然とした判断をされたと思います。江戸末期には15,000の寺小屋があり、識字率が70%にものぼっていたように日本人の知的水準は高く、冷静に真剣に物事を考える能力は高いのです。死刑については国民の80%は存続を容認していますが、裁判員裁判を通じて考えが変ってくるかもしれません。これからの議論になるでしょう。
 国民の司法参加は先進民主主義国では当然の事であり、日本でも明治維新以来導入に向けて議論が続けられてきました。文明開化の中で司法制度も欧米のものを取り入れました。政府の仏人法律顧問ボアソナードは、不平等条約改正の一環としても導入を主張し、「治罪法草案」を作成したが反対も多かった。岩倉使節団も陪審制については日本人には無理だとして積極的ではありませんでした。不平等条約も改正されて議論も下火となりましたが、明治末期から大正に入り、再度議論が始まりました。政友会の原敬首相は自身がボアソナードに師事したこともあり、「参政権が与えられたのであるから司法への参与も当然である。」と強く推進しました。


 契機となったのは3点あり、一つ目は明治43年に大逆事件が起り、不十分な審査の中で24名が死刑になったことです。明治憲法では裁判は「天皇ノ名ニ於テ行フ」とされており不可侵である天皇に責任が及ぶ可能性も出てきて陪審制を入れるべきではないかという議論になりました。二つ目は日糖事件、シーメンス事件という疑獄事件の捜査の中で山本内閣がつぶれる事態がおき、検察の強大な権限をチェックする必要があるのではないかという議論が出ました。元来検察は捜査はせず、捜査、検挙、送検は警察が行なった。しかし、起訴率80%、有罪率10%と無罪が多かったので検察が自ら調べることになり、大正10年には起訴率30%、有罪率90%となりました。世界でも珍しいケースです。三つ目は大正デモクラシーの流れの中での普通選挙との関連です。


 こうして陪審法が昭和3年4月施行され、18年3月停止されるまで続きました。但し、内容的には不十分なものであった。陪審員になるのにも強い制限があり、憲法上の問題から裁判官は陪審の答申に拘束されずまた陪審も請求されなければ行なわれず、あえて請求する者も少なかったのです。それでも15年間に484件あり、無罪率は80件、17%であった事は真剣に検討が行なわれた結果と云えましょう。
 戦後も木村法務大臣等から当然の事として提議されましたが経済的な理由等で導入されませんでした。大きな理由としては国民が裁判に対して大きな信頼を置いていたからだと思われます。日本程、清潔な裁判が行なわれている国は世界でも珍しいのです。但し、法律上の手当はされていました。憲法32条で、「(裁判官ではなく)裁判所による裁判」とし、裁判所法3条で陪審制度を容認しました。民主主義下ではあらゆる国権の発動に国民が関与するのは当然で、司法のみプロでやっていたという変則的な状況でした。キッカケとなったのは司法制度改革です。司法制度改革の本来の目的は行財政改革でした。戦後日本の復興に大きな功績のあった「行政指導」による行政のあり方が問われたわけです。グローバライゼーションと市場経済の進展の中で規制緩和、官から民への動きが大きくなりました。透明性の高い社会として「事前規制社会」から「事後監視社会」への移行が唱われました。事後監視型社会とは「法の支配こそ我が国が規制緩和を推進し、行政の不透明な事前規制を廃して、事後監視救済型社会への転換を図り、国際社会の信頼を得て繁栄を追求していく上でも欠かす事のできないものであり、政府においても司法の人的及び制度的基盤の整備に向けての本格的検討を早急に開始する必要がある。」 (平成9年12月行政改革会議最終報告書)とされ、その任務を司法が担うことになりました。
 改革の3本柱は、 ①利用しやすく、わかりやすく、頼りがいのある司法制度の構築→日本司法支援センター(法テラス)の設立。②質量ともに豊かな法曹の確保→法科大学院の創設(弁護士を増やす。アメリカは日本の20倍)③司法に対する国民の信頼を高める国民的基盤の確保→裁判員裁判制度の創設です。裁判員裁判制度は、わかりやすく、迅速かつ適正な裁判を目指して「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与する」ものです。
 これからの刑事裁判は調書裁判を脱却して法廷での証拠調べ中心という本来の姿にかわっていくでしょう。検察のあり方も、日本人の心性に配慮した取調べの可視化をどのように進めるか等議論が深まるでしょう。裁判員裁判制度はその為に十分な機能を果たしていくと思われます。今後とも日本の進歩の為に、裁判員裁判制度を厳しくも暖かい目で見守って頂くようお願い致します。


(文責・ 寺尾 勝汎)


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