行事報告

2010年05月27日 行事報告

中部地区5月月例会報告

日 時 平成22年5月27日(木)
場 所 丸紅名古屋支社 9階会議室
講 師 加藤三紀彦 名古屋城総合事務所整備室長
演 題 名古屋城本丸御殿の復元について

名古屋支社ビル

 今年の春、丸紅名古屋支社新ビルが完成し、今回5月度例会はお披露目も兼ね5月27日(木)新ビル9階会議室で行われました。社友の皆さんに新しい支社ビルを見たい気持ちも働き、今回の例会は約50名の参加となり盛況でした。
 まずは、山本支社長より丸紅の好調に推移している現況報告と将来の目標に関してお話を頂き、その後名古屋城総合事務所整備室長 加藤三紀彦様より、「名古屋城本丸御殿の復元について」と 題して講演をいただきました。

 講演後は、新ビル内の見学と環境に配慮した話題の屋上庭園を見学しました。庭園の中に流れる 小川にあめんぼやめだかを見つけ、社友の方々も 静かな自然の中でしばし童心に返りました。




屋上庭園-1


屋上庭園-2


講演会講演要旨


 名古屋城は徳川家康が東海道の要所として、又大阪方への備えとして、清須から名古屋へ遷府を決定し、1610年加藤清正、福島正則、前田利家等諸大名20名に普請を命じ、1612年に完成し、明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。
 しかし、第2次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月名古屋空襲の際、大、小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどが焼失してしまいました。幸いにも、三つの櫓、三つの門、そして本丸御殿の障壁画の大部分が焼失を免れました。これらは重要文化財として現在に伝えられています。
 名古屋城の本丸御殿は近世城郭御殿の最高傑作として、現在国宝の京都二条城の二の丸御殿と並び、武家風書院造りの双璧と称されていました。勇壮な天守閣と優美な御殿により名古屋城は1930年(昭和5年)に城郭建築として国宝第1号に指定されましたが、残念ながら1945年(昭和20年)空襲により天守閣、本丸御殿共に焼失してしまいました。
 その後天守閣は1959年(昭和34年)に再建されましたが、本丸御殿復元は実現していませんでした。本丸御殿は当初藩の政庁として又初代尾張藩主、徳川義直の住まいとして使われていましたが、1634年、三代将軍徳川家光が京都に向かうにあたり上洛殿などを増築し、その後は将軍専用の館に改まりました。

 明治以降は名古屋鎮台、更には名古屋離宮となり天皇の行幸の際に使われていました。 本丸御殿は焼失したものの、其の御殿室内を豪華絢爛に飾っていた1,049面に及ぶ襖絵や天井板絵などは戦火を免れ、今は国の重要文化財として保存しております。
 名古屋市としては、市民の皆様のお力添えで、「平成の市民普請」により本丸御殿を復元し、名古屋の名城を再生することにしました。名物河村市長の出現で、ある時期、事業仕分けの対象になり不安視された時期もありましたが、市民の皆さんの支援により市長の理解も進み、名古屋開府400年にあたる今年、本丸御殿の復元工事に入りました。
 戦火を免れた障壁画1,049面の復元模写は平成4年からすでに進められており、本丸御殿の復元はすべての伝統技術、技法を集めて進められる一大プロジェクトであります。名古屋の観光の顔としての"名古屋城、天守閣と本丸御殿"を市民の力でをスローガンに、進めており皆様のご協力を切にお願いします。尚、完成は2018年(平成30年)を目標にしております。

 余談ですが、名古屋城天守閣の西北に洋風な頑丈な建物があります。これは乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に陸軍の火薬弾倉庫として使われた建物ですが、いつしか誰言うと無く"乃木倉庫"と呼ばれるようになりました。そして本丸御殿の障壁画1,049面は、空襲の前にこの倉庫に保管され、お陰で戦火を免れることが出来ました。


以上 (文責 相崎)


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