行事報告

2010年10月01日 行事報告

関西地区10月月例会報告

日 時 平成22年10月1日(金)
場 所 丸紅(株)大阪支社2F講堂
講 師 作家 植松三十里氏
演 題 『龍馬にとって京女のお龍とは』

講師の植松三十里氏

 昭和52年東京女子大学史学科卒業後、婦人画報社編集局入社。7年間の在米生活、建築都市デザイン事務所勤務などを経て、フリーランスのライターに。平成15年「桑港にて」で歴史文学賞受賞。平成21年「群青 日本海軍の礎を築いた男」で新田次郎文学賞受賞。同年「彫残二人」で中山義秀文学賞受賞。関西地区の講演はここ1年間政局などのやや堅い話題が中心の講演となっていましたので、今回は少し趣向を変え、今NHK大河ドラマで大ヒットしている「龍馬伝」を側面から捕らえたお龍の話を聞かせて頂く事にしました。

< 講演要旨 >


 お龍は、京都の青蓮院門跡の侍医を務めていた漢方医の楢崎将作と、近江八幡から嫁いだお貞との間の、5人兄弟の長女として育ち、裕福な生活を送っていた。所が、お龍が19歳の時に安政の大獄が起き、父親将作が勤王家として捕まり、獄中で身体を壊して釈放後に亡くなった。お龍は美人で、思いきったことをする女であった。その証として、妹2人が騙されて女郎屋に売られかけた時も、ひとりで取り戻しに行くという武勇伝がある。
 父亡き後、一家の生活を支える為、母親のお貞は方広寺前の町家で、勤皇浪士たちのまかない役として、またお龍は旅館の仲居として、それぞれ働きに出た。一方、坂本龍馬は海軍操練所にいたが、方広寺前の町家にも出入をしており、お貞が娘のお龍を龍馬に引き合わせたらしい。坂本龍馬は寡黙な男であり、姉の乙女の様に向こう気の強い女性を慕っていた。乙女は土佐では有名な「はちきん」(男勝りの女)であり、お龍も同じタイプの女ある点に、龍馬は惚れた模様である。
 その後、お龍は龍馬の世話で寺田屋で働く事になり、かの有名な襲撃事件に遭遇する事になる。お龍の働きで危なく一命を取り留めた龍馬は、西郷さんの薦めで薩摩に行く事になり、薩摩の蒸気軍艦に乗り込んだ。その船上で西郷さんの立会いで正式の祝言を上げた。鹿児島では、日本人としては初めて新婚旅行として霧島へ湯治に行っている。
 その後、龍馬はお龍との住まいを、長崎・下関へと移し、結局お龍は下関で夫の訪れを待つ身となった。時には武蔵・小次郎の果し合いで有名な巌流島にも渡り、花火をして楽しんだりしている。お龍は下関で龍馬が近江屋で殺された事を知り、その後の人生が大きく狂った。


講演風景

 下関を離れ、龍馬の実家ある高知、妹お起美の亭主の実家である和食と渡り歩いたが、長続きはせず、龍馬の墓守をしたいからと京都に戻る。しかし明治政府が出来て以来、京都は不況の真っ盛りの中、女ひとりの暮らしは立ち行かず、以前寺田屋に出入りをしていた、呉服商西村松兵衛と一緒になる。
 しかし松兵衛の呉服の仕事も、ままならず 東京へ出る決意をする。東京では頼りにした西郷隆盛ともすれ違いとなり、松兵衛の仕事も上手く行かず、横浜・横須賀と流れていった。
 横須賀の裏長屋暮らしの末、お龍は66歳の生涯を閉じ、現在も横須賀の信楽寺に祭られている。お龍の波乱に富んだ一生をプロジエクターを使用しながらの講演であり、臨場感の溢れた90分でした。


(文責/塚原辰二)


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